
しまなみ海道の島の一つ・因島にある因島水軍城に行ってきました。
どうしてもここに行きたかった、というわけではなくて、
この後のお目当ての場所に向かう船の出発時間までの間、
どこか行けるところないかなあ...と探してて見つけたのがここ。
南北朝時代に村上師清という人物が天皇の命により瀬戸内に入り、
因島に24もの城を築きました。
師清には三人の息子がいて、長男・義顕は能島を、次男・顕忠は来島を、
そして三男・顕長を因島に配置しました。
これが村上水軍のはじまりです。
村上水軍はいわゆるパイレーツ(海賊)のような野蛮な強盗団というよりは、
自衛隊のような専守防衛を旨とする治安維持組織であったと言われます。

広島滞在最終日。
最後はやっぱり平和記念公園。
前回訪れたのは2011年3月。
実に7年ぶりの訪問です。
「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。
過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです。
ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。
ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を取ることです。」
広島出身であることを心から誇りに思います。

開館40周年 まるごと ひろしま美術館展2018。
西洋画編に続いて今回は日本画編です。
日本画もなかなか充実していました。
個人的にはどちらかといえば日本画よりは西洋画が好きなのですが、
ここの日本画コレクションはなかなか自分の好みの作品が多くて良かったです。
特に裸婦像。
なんていうか西洋画のような直接的なアピールではなく、
遠回しに隠喩的に色気を伝えようとする奥ゆかしさ、というか、
そういう雰囲気が日本人の自分の性にも合ってるというか。
改めて日本画の良さに目覚めた気にさせてくれる、良い展示だったと思います。

広島滞在最終日。
小雨の降りしきるなか、ひろしま美術館に行ってきました。
初訪問。
平和記念公園の北側と広島城の南側に挟まれたひろしま美術館は、
広島銀行が創業100周年を記念して1978年11月3日に開館しました。
設計は与謝野久/日建設計。
訪れた日は開館40周年を記念して、
本館が所蔵するる全館コレクション展示の初日でした。
開館時間に合わせて美術館に向かったのですが、
3,4台しか置けない美術館駐車場はすでに満杯、
やむなく隣の市民病院の有料駐車場に停めて、いざ中へ。
順路に従って作品鑑賞をしていたら、
中央ホールに人がわさわさ集まりはじめていたので、
何事だろうと見ていたら、
気品あるご婦人が話し始め、よくよく聞いていたら、
芸術作家・原田マハさんでした。
その日の夕方から講演会があったみたいですが、
事前申込制だったらしく、聞きに行けず。
それにしても一介の地方銀行にしては豪華すぎる所蔵品の数々にびっくり。
しかも全作品撮影OKだなんて。
見直したぞ、広島銀行。

原爆ドームのそばにあるおりづるタワーに行ってきました。
元々は東京海上日動火災保険のビルが建っていたところを、
2010年に広島マツダが取得、2013年に改修計画が発表され、
三分一博志氏の設計で2016年に「おりづるタワー」としてリニューアルオープンしました。
広島出身で親が広島市内にお店を出していたこともあって、
市内へはよく足を運んでいましたが、おりづるタワーが建つ前にここに何があったか、
なんてまったく記憶にない。
まあオフィスビルなんて得てしてそんなもので、
おりづるタワーも3階から11階まではオフィスですが、
せっかくの好立地を生かして、1階と12階・最上階が一般開放されています。
12階以上は入場料が必要なのですが、これが大人1700円となかなかのお値段。
三分一さんの建築には2013年に犬島精錬所美術館、2016年に直島ホールと訪れ、
地球にやさしいエコロジカル建築はもちろん、
その環境思想をデザインにも反映させている点がとても好きになりました。
はたしておりづるタワーにもその三歩一節がふんだんに盛り込まれていました。


広島平和記念公園の南、吉島通りの終点にある広島市環境局中工場を後にして、
広島平和記念公園の東、平和大通りの終点ある比治山の広島市現代美術館へ。
1980年に広島市が政令指定都市になったのを記念して、
比治山が「芸術公園」として整備されることになり、
あわせて博物館建設構想が上がり、黒川紀章の設計で1989年に完成。
丘の上の美術館は、大都市の中心地とは思えないほど静かで穏やかな空間でした。


仕事で広島に一週間出張でした。
月曜から金曜までの五日間だったので、
その前後で前入り・延泊して久々の広島を満喫することに。
まず最初はずっと行きたいと思っていた広島市環境局中工場。
いわゆるゴミ処理場なのですが、
誰もが敬遠するこの場所をあえて社会にアピールする空間として、
谷口吉生が設計し、2004年に竣工しました。
ゴミ処理場そのものは平日のみの営業で、訪れたのは土曜日でお休みだったのですが、
外観及び2階のエコリウムと呼ばれる開放スペースは休日も自由に見学できます。
ゴミは人間が生み出した「悪」だと思う。
そのままだと美しい地球を汚染する。
人間はそのことを知りながら忌み嫌い、目を背けようとする。
ゴミと向き合うことは地球と向き合うことだ。
それを世間に積極的にアピールする空間がこれからの社会には必要なんじゃないだろうか。

【訪問日:2017年10月31日】
前回の記事にて、ブログ再開宣言したものの、
なかなか気持ちが切り替わらず半年が経過。
...亀の歩みでの再開です。
岡山旅行記、後楽園を後にして最後は岡山市街地のはずれにある、吉備津神社へ。
お目当ては国宝の比翼入母屋造の本殿。


久々のブログの更新です。
じつは昨年11月に転職しまして、冬が忙しい職種ということもあって、
昨年10月末に出かけた旅行記もまだ残っていたのですが、
休みなしでどこへも行けないどころか、ブログを更新する間もありませんでした。
まだまだ繁忙期は続きますが、だいぶ時間の余裕が出てきたので、
少しずつ再開していきたいと思います。
昨年10月末の旅行記、岡山県の閑谷学校に続いては、
岡山駅近く、旭川をはさんで岡山城の北に広がる岡山後楽園に行ってきました。
江戸時代を代表する大名庭園の一つであり、
水戸偕楽園、金沢兼六園と並ぶ日本三名園の一つでもあります。
本園は1687年、岡山藩主・池田綱政公が家臣・津田永忠に命じて1687年に着工、
14年の歳月を経て1700年に完成しました。
その後も藩主の好みで手を加えられたものの、江戸時代の姿を大きく変えることなく
現在まで伝えられており、昭和27年に国の特別名勝に指定されました。
ちなみに池田綱政は名君として名高い池田光政の嫡男であり、
津田永忠はその光政によって見出された家臣であり、
光政の命により備前市の旧閑谷学校の建設にも携わっています。
作庭当初は城の後方にあることから「後園」と呼ばれていましたが、
明治になって、「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから
「後楽園」と改められました。
人より先に憂える場所が岡山城で、人より後れて楽しむ場所が後楽園といったところでしょうか。
時の名君が、天下の楽しみに遅れて楽しむために作った庭園とはいかなるものだったのか。
この目でしかと見届けたいと思います。


岡山県高梁市の備中松山城をあとにして、備前市の旧閑谷学校へ。
閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主・池田光政によって創建された、
現存する「世界最古の庶民のための公立学校」です。
池田光政は水戸の徳川光圀、会津の保科正之とともに江戸初期の三名君と称されています。
はじめて閑谷の地を目にした光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と賞賛、
地方のリーダーを養成する学校の設立を決めました。
そして藩主の命を受けた家臣・津田永忠はおよそ30年の年月をかけて、
元禄14年(1701年)に現在目にすることのできる学校の姿ができあがりました。
以降300年以上も当時の様相を色濃く残すものとして国の特別史跡に指定されているほか、
敷地内の25の建物物等が重要文化財に指定されてており、
中でも講堂は学校建築として唯一、国宝の指定を受けています。
また、平成27年には「近世日本の教育遺産群」として、
特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。
丸みを帯びた石塀に色鮮やかな備前焼の瓦の建物群は、
儒学の教える「仁政」に重きをおいた光政の方針とも相まって、
伝統的な日本建築とはちょっと違った独特な雰囲気を醸し出しています。


岡山県高梁市にある備中松山城に行ってきました。
愛媛に住む者としては、「松山城」といえば地元松山にあるお城を思い浮かべるのですが、
じつは瀬戸内海を隔てた岡山にも松山城があります。
愛媛の松山城と区別するために岡山の方は一般的に「備中松山城」と呼ばれています。
ちなみにどちらの松山城も現存天守を擁しています。
標高430メートルの臥牛山山頂にある山城であり、日本三大山城の一つとされています。
臥牛山は「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなっているのですが、
その山容が草上に突っ伏しているように見えるのがその名前の由来となっています。
現在は小松山エリアにのみ天守をはじめとした城郭が残っていますが、
かつては臥牛山全域が一大要塞となっていたようです。
城の歴史は鎌倉時代に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任じられた秋庭三郎重信により
大松山エリアに砦が築かれたことにはじまり、その後小松山移り、
目まぐるしく城主が変わったみたいですが、
現在残っている城郭は江戸時代に小堀正次・小堀政一(遠州)父子、水谷勝宗らにより
修築されたものだとされています。

三徳山をめざして岡山自動車道へ車を走らせていると、
ふと、「重森三玲の世界」という看板が視界に入ってきた。
すごく気になったのもの、できるだけ早く現地に着きたくてやむなくスルー。
しかし後日、どうにも気になって訪れることにしました。
岡山県吉備中央町は重森三玲の生まれ故郷です。
町内には記念館およびパネル展示室と、
「友琳の庭」「西谷邸」「小倉邸」「天籟庵」「功徳庵」の
三玲が手がけた庭園や茶室が5ヶ所あります。
事前にネットで調べたところ、いずれも無料公開してるとのことですが、
この「無料」が曲者でした。
たぶん平日はほとんど訪れる人がいないのでしょう。
どうやら普段は無人で放置状態のため、中に入れないところもあうようです。
訪れる際は管理をしている町役場に事前連絡をしたほうが良さそうです。
「タダほど高いものはない」とはよく言ったものです。


10年ぶりの尾道。
千光寺公園の駐車場に車を停め、千光寺から天寧寺と下りてきて、
国道沿いに東へどうすること10分。
最後の目的地、浄土寺に到着。
推古天皇24年(616年)聖徳太子開基と伝えられる。
鎌倉時代の終わり頃には荒れ果てていたが、定証上人により復興。
その20年後に焼失するも尾道の邑老道蓮・道性夫妻により堂宇再興の大願を発して再建、
現在に至る。
室町時代には武家・公家双方から手厚い外護を受ける。
特に足利氏による庇護は厚く、足利尊氏が九州に落ち延びる際には、
浄土寺にて戦勝挽回を祈願したところ、その後の戦いで見事に勝利し、
室町幕府の初代征夷大将軍となった。
南北朝時代の戦乱の世へとの移行に伴い再び荒廃するも、
江戸時代では地元豪商の庇護を受けることで支配階級からの保護から一転、
庶民信仰中心の寺院へと変貌した。
約700年も前の建造当初の様子をよく残しているとのことから、
境内の土地と建物(本堂・多宝塔)の両方で国宝の指定を受けています。
これはこの浄土寺と京都の清水寺のみです。


尾道散策。
山上の千光寺から麓の国道に降りてくる途中に見える見事な三重塔。
三重塔以外の本堂や山門はどこだろうと思いつつ、
見つけられぬまま通り過ぎること数回。
今回ようやくお寺の全貌を目にすることができました。
三重塔以外にも五百羅漢や直原玉青の襖絵など、見どころ満載のお寺でした。

草間彌生『ハーイ、コンニチワ!ヤヨイちゃん』『ハーイ、コンニチワ!ポチ』(2004)

広島県尾道市の千光寺公園の中にある尾道市立美術館へ行ってきました。
国内の現代アートコレクターを代表する高橋龍太郎氏、田口弘氏、桶田夫妻の
膨大なコレクションから第一線で活躍する現代アーティストの作品約40点を展示する
企画展が開催中でしたが、自分のもっぱらの関心は、
安藤忠雄設計によりリニューアルされた美術館そのものでした。
開館当初の美術館の様子を知らないので、新旧の変化を探ることはできないのですが、
古い伝統的な寺社建築の前に安藤さん独特のコンクリートボックスが配置されるという
割りと分かりやすい構造なので安藤さんの行った改修ポイントがそれなりに見えた気がします。
外見的には比較的新旧の建物の区別がはっきりしているのですが、
内部はシームレスにつながっており、単に古い建物の前に新しい建物を加えただけでなく、
一つの美術空間としてトータル的に見直されたことが分かります。


尾道の千光寺に行ってきました。
大同元年(806年)、弘法大師開基の真言宗系のお寺。
大宝山(千光寺山)の中腹140メートルの斜面上に建っています。
本尊は聖徳太子作と伝えられる千手観音菩薩。
三十三年に一度にご開帳となる秘仏で、
「火伏せの観音」と称されとくに火難除けに霊験あらたかなのだそうです。
明治になって、尾道に遊園地がないことを憂えた千光寺のご住職が、
寺領の一部を提供して公園整備を行い、千光寺公園ができました。
10年以上前に訪れたときは小さいながら観覧車もあって、
遊園地的な雰囲気も多少あったのですが、
その観覧車も今はなく、普通の公園になってますが、
この公園があったからこそ、
巨岩だらけの斜面にへばりつくように建つこのお寺に参拝客を呼び込むことができたのです。
今ではロープウェーも通ってアクセスも良くなり、
尾道といえば千光寺、と平地の寺社群よりも有名な観光スポットになりました。
公園を作ろうと思ったご住職に先見の明があったからこそ、
現在の千光寺があるんですね。


国宝建築行脚の旅。
島根県2つめの国宝は出雲大社。
あらゆるものが豊かに、力強くある国「豊葦原の瑞穂国」を築かれた大国主大神は、
この国を天照大御神にお譲りになり、そのことを喜ばれた天照大御神は、
高天原の諸神を集められて大国主大神の宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を造営されました。
これが現在の出雲大社です。
なお、出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と読みますが、
正確には「いづもおおやしろ」と読むそうです。
このようにして目に見える世界を天照大御神が治め、
大国主大神は目に見えない世界を司り、
そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々を幸せに導いてくださるのだそうです。
年に一度、全国の神々は出雲大社の大国主大神の元に集まって、
人々の"しあわせ"の御縁を結ぶ会議「神議(かみはかり)」がなされます。
これが10月のことであり、この月を「神無月」と呼ぶ由縁です。
(逆に出雲の地では「神在月」になります)
神々が集まってなされる神議の催しを「神在祭」と呼びます。
出雲大社へは子どもの時分に親に連れられてきたことがありますが、
大人になってきちんと訪れるのははじめて。


島根県立美術館に行ってきました。
北九州市立美術館と福岡市美術館の所蔵品を展示する「夢の美術館」展が開催中でしたが、
一番の目的は菊竹清訓さんが晩年に設計した空間を見ることでした。
宍道湖畔に建つその建物は湖畔側、道路側ともに緩やかな弧を描いており、
水面と大地をつなぐ「なぎさ」をイメージしたものだそうです。
一歩その建物の中に入ると、天井にそのなぎさ仰ぎ見ることで、
あたかも水の中を優雅に闊歩しているような錯覚に見舞われる。
島根県立美術館は島根県立博物館の財産を継承する形で1999年に開館しました。
島根県立博物館(現・島根県公文書センター)も1959年にやはり菊竹さんが手がけました。
ほかにも島根県立図書館、島根県立武道館、田部美術館など、
松江には菊竹さん設計の建物がけっこうあるようです。
島根県立美術館では水を主題とした作品の収集に力を入れており、
開館20年に満たない若い美術館ながら日本近世絵画から19世紀フランス絵画や現代彫刻まで
4400点を越える規模にまでに成長しています。
福岡の2つの美術館所蔵品を展示する今回の企画展は予想以上に豪華な顔ぶれでしたが、
島根県立美術館のコレクションもこれに負けない豪華な顔ぶれでした。
しかもコレクション展に関しては撮影OKというオープンスタンスも嬉しい。
菊竹さんの作った素晴らしい空間にふさわしい展示内容で、
企画展と所蔵品展とを合わせてまさに「夢の美術館」でした。


とくに小泉八雲に詳しいわけでも興味があるわけでもないのですが。
この夏に愛媛の国宝・大宝寺に訪れたときに、
そのお寺に伝わる逸話を小泉八雲が「怪談」におさめたことを知りました。
今回中四国の国宝建築巡りで松江城に訪れることを決めたときに、
その近くに小泉八雲の記念館および旧居があることを知り、
お城とセットの共通入場券もあることだし、ということで訪れました。
パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日に、ギリシャのレフカダ島で
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれる。
当時はアイルランドはまだ独立しておらず、レフカダ島もイギリス領だったこともあり、
ハーンはイギリス国籍を有していました。
2歳のときにアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリック教育を受ける。
19歳のときに父母代わりだった大叔母の破産を機に単身渡米、ジャーナリストとして身を立てる。
シンシナティ、ニューオリンズ、カリブ海マルティニーク島と移り住み、
ニューオリンズ時代に万博で日本文化に出会い、興味を持つ。
そして1890年4月に日本の土を踏みます。
日本人女性と結婚し、帰化することで「小泉八雲」と名乗ることにした。
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力する一方で、
得意の語学力を生かして日本文化を欧米に伝える執筆活動にも尽力した。
よく知らないながらもなぜか気になるのは、
同じ「流浪の民」としての社会における位置づけが気になるからであろうか。

鳥取の国宝・三佛寺投入堂をあとにして、
安来市の足立美術館を経由して松江入り。
島根は国宝二ヶ所を中心に巡りました。
まずは宍道湖の東端に建つ国宝松江城。
築城は関ヶ原の戦いでの戦功により出雲・隠岐両国を拝領した堀尾吉晴・忠氏親子。
最初はの月山富田城(現在の安来市)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
以後京極氏、松平氏と藩主が変わり明治維新まで藩政が続く。
昭和10年に一度国宝に指定されましたが、
昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたもの、
平成27年7月に国宝に再指定されました。
現存12天守のうち、これまで国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つでしたが、
新たに松江城が加わり国宝五城になりました。
明治の廃城令時、松江城の多くはことごとく取り壊されましたが、
せめて天守は、と地元有志の奔走により山陰で唯一残される天守となりました。