[千光寺大師堂]
しまなみ海道広島側の玄関口、尾道。
「坂の街」「文学の街」「映画の街」。
林芙美子、志賀直哉などが居を構えた街であり、
小津安二郎監督の「東京物語」が撮影された街であり、
大林宣彦監督の「尾道三部作」の舞台となった街である。
しまなみ海道を自転車で横断するにあたり、まずはこの街を散策。
しかし、坂の街だけに自転車での移動はなかなか骨が折れるものでした...
【追記】
2017年5月、NHKの「ブラタモリ」で尾道を特集していました。
尾道は3つの山に囲まれた町ですが、
かつては今よりもっと平野部が少なく、海がもっと内陸部まで入り込んでいて、
尾根の際に張り付くように道が走り、人が集まっていました。
それが「尾道」という町の名前の由来です。
千光寺公園を見れば分かるように、尾道の山肌には巨岩がゴロゴロしており、
昔から神聖な場所とされていたことから、
尾道三山の千光寺・西國寺・浄土寺を中心に多くの寺社が建てられました。
また、尾道の近く(現在の世羅町辺り)には大田荘という大きな荘園があり、
尾道はこの大田荘でできる作物を積み出す港町として栄え、
多くの寺社も港町の商人たちによって建てられました。
こうして町が栄え、人が増えるに連れ、海を埋め立てて町を広くしていく一方で、
明治になって聖域と俗域の境目である山の際に鉄道が通ると、更に町は拡大してゆき、
寺社は土地を貸し出し、人々は山肌にも家を建てるようになりました。
そして埋め立てられることで尾道水道は川のように幅が狭くなり、
元々寺社が多かった山肌にも町は広がり、尾道は坂の町となったのです。
千光寺本堂(赤堂)。
玉の岩のてっぺんに置かれた玉。
かつては透き通った勾玉が、まばゆいほどの光(閃光=千光)を放ち、
その光は遠く海の上からも見えたことから灯台の役割も果たしていた。
ある時、この噂を聞きつけた異国の賊がその勾玉を盗もうと、
舟で運び出そうとしているときに玉を海に落としてしまった。
それでこの辺の海(尾道水道)は「玉の浦」と呼ばれ、
「千光寺」の名の由来ともなった、という「玉の岩」伝説が今に伝わる。
その後、玉を失って困った人々は、玉の岩でかがり火を焚いていたが、
今では電気で光る玉が埋め込まれているのだけれど、
今でも岩のてっぺんには玉がくり抜かれた穴や焚き火の跡が残っているとか、いないとか。
梵字岩。
鏡岩。
千光寺の住職がつくった千光寺公園。
巨岩の合間を縫うように作られた文学のこみち。
放浪記 林芙美子
海が見えた。
海が見える。
五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。
汽車が尾道の海にさしかかると、
煤けた町の屋根が提灯のように拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える。
山は爽やかな岩葉だ。
緑色の海、ドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれていた。
日のかげは 青海原を照らしつつ 光る孔雀の 尾の道の神 十返舎一九
のどかさや 小山つづきに 塔二つ 正岡子規
「塔二つ」は以下の二つの塔を指しているのだそうです。
天寧寺の三重塔。
浄土寺の二重の塔(多宝塔)。
千光湧水。
出会いの広場。
観覧車もあります。
尾道市立美術館。
安藤忠雄設計。
浄土寺。飛鳥時代、聖徳太子により開創されたと伝えらえます。
鎌倉時代末期の頃には荒れ果てていたのを再興、
以来600年以上建物及びその配置をよく残していることから、
建物と土地の両方で国宝に指定されています。
建物と土地の両方が国宝なのはここと京都の清水寺だけだそうです。
[阿弥陀堂と多宝塔]
[本堂]
[多宝塔]
[山門]
[裏門]
庫裡の屋根裏部屋では、
江戸時代、米価などの商情報をやりとりする伝書鳩が買われていたいたそうで、
その巣箱の痕跡が現在でも残っているそうです。
当時は伝書鳩は御法度とされており、庫裡の屋根裏はまたとない隠し場所だったとか。
普段は公開されていないので、なかなか見ることはできないんですけど。
(※2017年5月:ブラタモリより)
西國寺。東大寺建立の最高責任者であった行基による開基と伝えられます。
[金堂]
[英霊堂]
尾道大学美術学部生の彫刻作品。
小高い丘に建つ、尾道城。
歴史的建造物ではなく、天守を模した博物館で現在は廃墟と化しているそうです。
なんかもったいない...
ドックヤード。
千光寺から見る尾道の町並み。
尾道駅。
すぐ前は海。
対岸の向島との間は狭く、尾道水道と呼ばれています。
【information】