10年ぶりの尾道。
千光寺公園の駐車場に車を停め、千光寺から天寧寺と下りてきて、
国道沿いに東へどうすること10分。
最後の目的地、浄土寺に到着。
推古天皇24年(616年)聖徳太子開基と伝えられる。
鎌倉時代の終わり頃には荒れ果てていたが、定証上人により復興。
その20年後に焼失するも尾道の邑老道蓮・道性夫妻により堂宇再興の大願を発して再建、
現在に至る。
室町時代には武家・公家双方から手厚い外護を受ける。
特に足利氏による庇護は厚く、足利尊氏が九州に落ち延びる際には、
浄土寺にて戦勝挽回を祈願したところ、その後の戦いで見事に勝利し、
室町幕府の初代征夷大将軍となった。
南北朝時代の戦乱の世へとの移行に伴い再び荒廃するも、
江戸時代では地元豪商の庇護を受けることで支配階級からの保護から一転、
庶民信仰中心の寺院へと変貌した。
約700年も前の建造当初の様子をよく残しているとのことから、
境内の土地と建物(本堂・多宝塔)の両方で国宝の指定を受けています。
これはこの浄土寺と京都の清水寺のみです。
尾道散策。
山上の千光寺から麓の国道に降りてくる途中に見える見事な三重塔。
三重塔以外の本堂や山門はどこだろうと思いつつ、
見つけられぬまま通り過ぎること数回。
今回ようやくお寺の全貌を目にすることができました。
三重塔以外にも五百羅漢や直原玉青の襖絵など、見どころ満載のお寺でした。
尾道の千光寺に行ってきました。
大同元年(806年)、弘法大師開基の真言宗系のお寺。
大宝山(千光寺山)の中腹140メートルの斜面上に建っています。
本尊は聖徳太子作と伝えられる千手観音菩薩。
三十三年に一度にご開帳となる秘仏で、
「火伏せの観音」と称されとくに火難除けに霊験あらたかなのだそうです。
明治になって、尾道に遊園地がないことを憂えた千光寺のご住職が、
寺領の一部を提供して公園整備を行い、千光寺公園ができました。
10年以上前に訪れたときは小さいながら観覧車もあって、
遊園地的な雰囲気も多少あったのですが、
その観覧車も今はなく、普通の公園になってますが、
この公園があったからこそ、
巨岩だらけの斜面にへばりつくように建つこのお寺に参拝客を呼び込むことができたのです。
今ではロープウェーも通ってアクセスも良くなり、
尾道といえば千光寺、と平地の寺社群よりも有名な観光スポットになりました。
公園を作ろうと思ったご住職に先見の明があったからこそ、
現在の千光寺があるんですね。
念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。
中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号
開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。
その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。
かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。
前記事では本堂までの参道を紹介してきましたが、
本記事ではいよいよ奥の院の投入堂をめざします。
念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。
中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号
開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。
その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。
かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。
まずは本堂までの参道部分をレポートします。
10年前に買った「CasaBRUTUS特別編集 安藤忠雄×旅 総集編」を久しぶりに読み返していると、
愛媛にも安藤建築が、それも安藤さんにはめずらしい木造建築がある、
ということに改めて気づきました。
買った当初は東京に住んでていて、
遠い愛媛にある建物のことにはあまり興味が向かなかったんでしょうね。
...というわけで西条市の光明寺に行ってきました。
開基は戦国時代の1520年頃、現在の住職は22代目。
2000年に安藤忠雄設計で全伽藍(本堂、客殿、礼拝堂、庫裡)を新築。
戦国時代開基の古刹を現代建築界の巨匠が大胆に刷新する。
長年積み重ねてきた伝統的な寺社建築の枠を打ち破る。
いろんな面で批判は決して少なくなかったことでしょう。
しかし考えてみれば、伝統的な寺社建築も最初は革新からはじまったはず。
革新なきところに前進はなく、廃れゆくのみ。
実際、過疎化が進む地方においては檀家が減り、
寺社を維持していくのが難しくなっていると聞きます。
三方を格子に囲まれた本堂の中は格段に明るい。
従来の薄暗い本堂からすれば違和感はあるものの、
木材という昔から馴染みのある素材に囲まれているせいか、心地よさを感じました。
この建物はお寺にとっても、コンクリート造を得意とする安藤さんにとっても、
革新的な挑戦だったのでしょうね。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
下段部・上段部に続いて、庭園・本坊・宝物館エリアを紹介していきます。
石手寺の庭園はいわゆる美観や莊嚴さをアピールしたものではありません。
やはりカオス感を全面に押し出した不思議な雰囲気を醸し出したものとなっています。
仁王門の右側の三重塔や鐘楼の奥に七転八福神を祀った庭園があります。
さらにその奥に寺宝を常時展示している宝物館や、
ブッダの一生を表現した彫刻を置いた庭がある本坊があります。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
現在の境内はさほど広いわけではないのだけど、
盛りだくさんすぎるので3つのパートに分けます。
本記事では、下段部から上がってきて上段部をご紹介。
本堂の裏側には洞窟があり、その奥にはさらに奥の院があります。
ただ、本堂に来るまでにもうたくさんありすぎてついつい見過ごしがち。
(自分は最初見過ごしてしまいました^^;)
しかし、この本堂の奥にこそ石手寺ワールドの醍醐味が潜んでいるのです。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
時は奈良時代、伊予の豪族・越智玉純が霊夢により熊野十二社権現を祀ったのを機に、
聖武天皇の勅願所となり、行基が薬師如来を刻んで本尊に祀って開基した。
この時の寺の名前は「安養寺」であった。
平安時代に衛門三郎という長者がいた。
ある日、托鉢の僧を弘法大師と知らずに托鉢をとり上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた。
以後三郎の八人の子どもがことごとく死んだ。
三郎は改心し、大師を探して四国巡拝の旅に出るが、出会えぬまま病に伏してしまう。
その時、枕元に弘法大師が現れ、「衛門三郎」と刻んだ石を授けると、
三郎は安堵して息を引き取る。
ちなみにこの時の巡礼旅が四国遍路のはじまりであり、衛門三郎はその開祖とされています。
その後、地方豪族の河野息利に男子が生まれたが、右の手を握ったまま開かないので
この寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と刻まれた石が出てきた。
そこでこの石を当山に収め、寺号を安養寺から石手寺に改めた。
...由来を聞くだけでもなかなか奇妙な感じのお寺ですが、その実態もなかなか。
それはまさにカオス。
愛媛県にある3つの国宝建造物はすべて松山市内にあります。
今回は松山総合公園の麓にある大宝寺に行ってきました。
残る二つの太山寺、石手寺のような四国八十八ヶ所霊場ではありませんが、
空海の興した真言宗系のお寺です。
古照山薬王院大宝寺。本尊は薬師如来。
飛鳥時代の大宝元年(701年)に小千(越智)伊予守玉興により創建。
現在残っている本堂が平安末期の阿弥陀堂形式を用いて鎌倉時代の建立で、
愛媛県最古の木造建造物であり、国宝建造物に指定されています。
松山市のほぼ中心部にありながら周囲は閑静な住宅街であり、
境内もそれほど大きくなく、併設されている住職の邸宅のほうが立派に見えるくらい、
簡素ですっきりした構成でした。
お遍路巡りの寺に指定されていないこともあってか、参拝者は自分以外に誰もなく、
ひっそりとした雰囲気でした。
まあ、自分はお寺のそういう雰囲気が好きなのだけど。
松山市太山寺町にある太山寺に行ってきました。
創建は飛鳥時代、開基は真野長者。
ある時、長者が商いで大阪に向かう途中、嵐に遭難。
そこで観音様に無事を祈願したところ、高浜の砂浜に無事流れ着く。
この報恩に、と一夜にしてこのお寺を築き上げた、という伝説が残っています。
鎌倉時代に創建された本堂は、桁行七間、梁間九間、屋根は入母屋造りの本瓦葺で
全国屈指の規模を誇り(県下最大)、国宝に指定されています。
ちなみに愛媛県ではこの太山寺本堂と石手寺仁王門、大宝寺本堂の3つが
国宝建造物に指定されています。
長い年月風雪に耐え抜いてきた屋根は独特の重みというか迫力を感じずにはいられない。
「お寺とミュージアム」がテーマの今回の遠出、
広島県福山市の神勝寺に続いて、尾道市のしまなみ海道上の島・生口島の耕三寺にやってきました。
耕三寺は大阪で事業を営んでいた金本福松(後の耕三寺耕三)氏が1927年(昭和2年)に、
母のために故郷に隠居所(潮聲閣)を建てたのが元々のはじまりで、
母親の死後の1935年(昭和10年)、母への報恩感謝の意を込めて自ら僧籍に入り、
菩提寺として生涯を掛けて建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
周囲に何もない瀬戸田の土地に誇れる文化を、という熱意も相まって、
境内には日本各地の古建築を模した15棟の国登録有形文化財の建物に加えて、
仏像・書画・茶道具などの美術コレクションを境内の僧宝蔵と法宝蔵及び分館・金剛館に展示、
さらに本堂の地下には仏教の地獄観・極楽浄土観を表現した千仏洞、
本堂の奥にはイタリアで活躍する日本人彫刻家・杭谷一東氏による彫刻庭園「未来心の丘」など、
境内全体を博物館施設とした「耕三寺博物館」となっています。
さて、下段・中段・上段と上がってきた後は、本堂の地下に広がる千仏洞と、
本堂の奥にある未来心の丘を巡った後、最後は下段山門まで降りてきて、
道路を挟んだ先にある分館・金剛館を紹介していきます。
耕三寺はあくまでお寺なので、その本分は本堂を中心とした寺社建築にあるわけですが、
それだけなら積み重ねた歴史が浅いぶん、古来からの寺社群には勝てない。
寺社の領域を越えたところにあるこれらののスポットがあればこそ、
耕三寺独自のアイデンティティが誕生し、魅力的な空間を生み出しているのではないだろうか。
「お寺とミュージアム」がテーマの今回の遠出、
広島県福山市の神勝寺に続いて、尾道市のしまなみ海道上の島・生口島の耕三寺にやってきました。
耕三寺は大阪で事業を営んでいた金本福松(後の耕三寺耕三)が1927年(昭和2年)に、
母のために故郷に隠居所(潮聲閣)を建てたのが元々のはじまりで、
母親の死後の1935年(昭和10年)、母への報恩感謝の意を込めて自ら僧籍に入り、
菩提寺として生涯を掛けて建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
周囲に何もない瀬戸田の土地に誇れる文化を、という熱意も相まって、
境内には日本各地の古建築を模した15棟の国登録有形文化財の建物に加えて、
仏像・書画・茶道具などの美術コレクションを境内の僧宝蔵と法宝蔵及び分館・金剛館に展示、
さらに本堂の地下には仏教の地獄観・極楽浄土観を表現した千仏洞、
本堂の奥にはイタリアで活躍する日本人彫刻家・杭谷一東氏による彫刻庭園「未来心の丘」など、
境内全体を博物館施設とした「耕三寺博物館」となっています。
下段部分に続いて、中段・上段部分へと上がっていきます。
耕三寺は基本的に左右対称のシンメトリー構造となってますが、
これが完全なシンメトリーだとちょっと退屈なものになってしまうのですが、
下段部分では潮聲閣や仏法殿、上段では救世観音像や銀龍閣、茶祖堂などで
少しバランスを崩すことで来訪者の興味を換気する。
さらに境内の地下や外に千仏洞や未来心の丘・金剛館を配することでさらにその興味は強くなる。
出発は伝統的なスタイルの寺社をモデルにしながらも、
試行錯誤で魅力の追求に力を入れることで耕三寺にしかない独自のスタイルができあがった。
「お寺とミュージアム」がテーマの今回の遠出、
広島県福山市の神勝寺に続いて、尾道市のしまなみ海道上の島・生口島の耕三寺にやってきました。
耕三寺は大阪で事業を営んでいた金本福松(後の耕三寺耕三)が1927年(昭和2年)に、
母のために故郷に隠居所(潮聲閣)を建てたのが元々のはじまりで、
母親の死後の1935年(昭和10年)、母への報恩感謝の意を込めて自ら僧籍に入り、
菩提寺として生涯を掛けて建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
周囲に何もない瀬戸田の土地に誇れる文化を、という熱意も相まって、
境内には日本各地の古建築を模した15棟の国登録有形文化財の建物に加えて、
仏像・書画・茶道具などの美術コレクションを境内の僧宝蔵と法宝蔵及び分館・金剛館に展示、
さらに本堂の地下には仏教の地獄観・極楽浄土観を表現した千仏洞、
本堂の奥にはイタリアで活躍する日本人彫刻家・杭谷一東氏による彫刻庭園「未来心の丘」など、
境内全体を博物館施設とした「耕三寺博物館」となっています。
隣に平山郁夫美術館があることもあり、何度となくこのお寺の前を通っていたのですが、
華美な装飾の門構えになんとなく薄っぺらさを感じてしまい入るのを躊躇していたのですが、
神勝寺での興奮を勢いにようやく今回中に入ってみたのですが...
門の前で感じていた「薄っぺらさ」は微塵もなく、
まったくの自分の偏見であり、感じていたのは自分の薄っぺらさだった。
その内部は濃密な魅力の詰まった空間でした。
模倣そのものは悪ではない。
創造の過程においてその起源は模倣からはじまるのだから。
何もないところから何か生まれたりはしないのだから。
模倣を繰り返すことで表現者独自のクセとでもいうものが加わることで、
新たな表現が生まれてくる。
新しい創造とはそういうものではないだろうか。
広島県福山市のお寺のミュージアム「神勝寺 禅と庭のミュージアム」後編。
後半は前半の賞心庭をさらに上っていった無明院を中心としたエリアを紹介していきます。
賞心庭を抜けて五観堂、鐘楼門、花紅苑、秀路軒、竹径、一来亭などの
建屋、庭園を経て無明院へと至ります。
無明院は1977年に建立された神勝寺の本堂です。
建立者が実業家だったせいか外観は一見して伝統的な寺社スタイルですが、
鉄筋コンクリート造りで三百畳の広さの本堂はピロティで持ち上げられて、
一階部分は駐車場となっているなど、近代的な要素の目立ったものとなっています。
古来からの寺社のように積み上げてきた歴史がないぶん、
外から良いものを貪欲に取り入れることで、独特の魅力が形成された。
2016年最後の遠出。
今回は「お寺とミュージアム」をテーマに広島県のお寺二箇所を周りました。
一つは今回紹介する福山市の神勝禅寺、もう一つが生口島の耕三寺です。
共に開基が元々は実業家という異色のお寺であり、
いわゆる一般的な寺社とは一風変わった雰囲気が楽しめる場所ではないでしょうか。
神勝寺は正確には「臨済宗建仁寺派天心山 神勝禪寺」といい、
福山市は海際の閑静な山の中にあります。
本寺は当時常石造船の社長であった神原秀夫氏が益州宗進禅師を勧請開山として、
1965年に建立(宗教法人認可)された、臨済宗建仁寺派の特例地寺院です。
元々あった白隠禅師の禅画・墨跡のコレクションおよそ200点に加え、
2016年9月に名和晃平|SANDWICH設計によるアートパビリオン《洸庭》が新たに作られ、
お寺全体をミュージアムに見立てた「禅と庭のミュージマム」がオープンしました。
もちろん、この《洸庭》が一番の見所ではありますが、
それ以外にも藤原照信設計の寺務所「松堂」など、見どころ満載な空間です。
会場は《洸庭》のある賞心庭エリアと白隠コレクションのある無明院エリアの
大きく二つに分けられますが、本記事ではまず賞心庭エリアを紹介していきます。
淡路島散策編。
国道28号線を走っていると、世界平和大観音像と同じく目を引いた派手な宝塔。
荒れ果てた平和観音寺を訪れた後、立ち寄ってみました。
淡路島七福神の総本山で大黒天さまを祀ったお寺だとか。
平和観音寺を訪れた後だけにひときわ艶やかさが際立っていました。
淡路島散策編。
洲本城から本福寺に向けて海沿いの国道28号線を車を走らせていると、
突如として現れる巨大な仏像。
淡路島にもこんな巨大な仏像があったんだ...
と、スマホでちょっとググってみるとどうやら「世界平和大観音像」というものらしい。
入場料800円かあ...高いなあ。
...ん?
今は廃業...?
気になって本福寺・淡路夢舞台を見学した後引き返してきてみると。
そこは紛れもなく廃墟と化した空間でした。
淡路島の本福寺水御堂(ほんぷくじみずみどう)に行ってきました。
安藤忠雄設計により1991年竣工。
安藤さんお得意のコンクリートに包まれた空間は、
これまでの寺社建築の常識を覆すものでありながら、
古来からの寺社建築の伝統が築き上げてきた雰囲気を妨げない。
京都・東福寺に行ってきました。
二年前に東京のワタリウム美術館での展示を見て以来、訪れてみたかった場所。
「京都最大の伽藍」で紅葉の名所「通天橋」で有名なお寺ですが、
僕の一番のお目当ては重森三玲の「八相の庭」。
東福寺は大きく「通天橋・開山堂エリア」「方丈エリア」「本堂エリア」の3つのエリアに分けられます。
うち本堂エリアだけが無料拝観でき、他の2つはそれぞれ入場料が必要です。
残念ながら粉雪が舞う寒い日での観覧となりましたが、
やはりそこは素晴らしい空間なのでした。