鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる 与謝蕪村
夏休み二日目、佐川美術館を後にして現存十二天守の一つ、彦根城へ。
関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として活躍した井伊直政が
その軍功により家康より近江国北東部を賜り、
その居城として彦根城が建てられました。
直政は戦傷が癒えず、築城が実現を待たずに死去してしまいますが、
その子直継の代になった1604年に築城を開始、20年の歳月を経て完成しました。
幕末に大老となった井伊直弼も藩主となるまではこの城で過ごしました。
明治の廃城令とともに解体の危機に遭いますが、
明治天皇が巡幸でこの城を通られた際に保存を命じられたことで破却を免れ、
現在まで往時の姿をよく留めています。
現存十二天守のひとつであり、天守・附櫓・多門櫓が国宝に指定されています。
【訪問日:2017年10月31日】
前回の記事にて、ブログ再開宣言したものの、
なかなか気持ちが切り替わらず半年が経過。
...亀の歩みでの再開です。
岡山旅行記、後楽園を後にして最後は岡山市街地のはずれにある、吉備津神社へ。
お目当ては国宝の比翼入母屋造の本殿。
岡山県高梁市の備中松山城をあとにして、備前市の旧閑谷学校へ。
閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主・池田光政によって創建された、
現存する「世界最古の庶民のための公立学校」です。
池田光政は水戸の徳川光圀、会津の保科正之とともに江戸初期の三名君と称されています。
はじめて閑谷の地を目にした光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と賞賛、
地方のリーダーを養成する学校の設立を決めました。
そして藩主の命を受けた家臣・津田永忠はおよそ30年の年月をかけて、
元禄14年(1701年)に現在目にすることのできる学校の姿ができあがりました。
以降300年以上も当時の様相を色濃く残すものとして国の特別史跡に指定されているほか、
敷地内の25の建物物等が重要文化財に指定されてており、
中でも講堂は学校建築として唯一、国宝の指定を受けています。
また、平成27年には「近世日本の教育遺産群」として、
特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。
丸みを帯びた石塀に色鮮やかな備前焼の瓦の建物群は、
儒学の教える「仁政」に重きをおいた光政の方針とも相まって、
伝統的な日本建築とはちょっと違った独特な雰囲気を醸し出しています。
10年ぶりの尾道。
千光寺公園の駐車場に車を停め、千光寺から天寧寺と下りてきて、
国道沿いに東へどうすること10分。
最後の目的地、浄土寺に到着。
推古天皇24年(616年)聖徳太子開基と伝えられる。
鎌倉時代の終わり頃には荒れ果てていたが、定証上人により復興。
その20年後に焼失するも尾道の邑老道蓮・道性夫妻により堂宇再興の大願を発して再建、
現在に至る。
室町時代には武家・公家双方から手厚い外護を受ける。
特に足利氏による庇護は厚く、足利尊氏が九州に落ち延びる際には、
浄土寺にて戦勝挽回を祈願したところ、その後の戦いで見事に勝利し、
室町幕府の初代征夷大将軍となった。
南北朝時代の戦乱の世へとの移行に伴い再び荒廃するも、
江戸時代では地元豪商の庇護を受けることで支配階級からの保護から一転、
庶民信仰中心の寺院へと変貌した。
約700年も前の建造当初の様子をよく残しているとのことから、
境内の土地と建物(本堂・多宝塔)の両方で国宝の指定を受けています。
これはこの浄土寺と京都の清水寺のみです。
国宝建築行脚の旅。
島根県2つめの国宝は出雲大社。
あらゆるものが豊かに、力強くある国「豊葦原の瑞穂国」を築かれた大国主大神は、
この国を天照大御神にお譲りになり、そのことを喜ばれた天照大御神は、
高天原の諸神を集められて大国主大神の宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を造営されました。
これが現在の出雲大社です。
なお、出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と読みますが、
正確には「いづもおおやしろ」と読むそうです。
このようにして目に見える世界を天照大御神が治め、
大国主大神は目に見えない世界を司り、
そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々を幸せに導いてくださるのだそうです。
年に一度、全国の神々は出雲大社の大国主大神の元に集まって、
人々の"しあわせ"の御縁を結ぶ会議「神議(かみはかり)」がなされます。
これが10月のことであり、この月を「神無月」と呼ぶ由縁です。
(逆に出雲の地では「神在月」になります)
神々が集まってなされる神議の催しを「神在祭」と呼びます。
出雲大社へは子どもの時分に親に連れられてきたことがありますが、
大人になってきちんと訪れるのははじめて。
鳥取の国宝・三佛寺投入堂をあとにして、
安来市の足立美術館を経由して松江入り。
島根は国宝二ヶ所を中心に巡りました。
まずは宍道湖の東端に建つ国宝松江城。
築城は関ヶ原の戦いでの戦功により出雲・隠岐両国を拝領した堀尾吉晴・忠氏親子。
最初はの月山富田城(現在の安来市)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
以後京極氏、松平氏と藩主が変わり明治維新まで藩政が続く。
昭和10年に一度国宝に指定されましたが、
昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたもの、
平成27年7月に国宝に再指定されました。
現存12天守のうち、これまで国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つでしたが、
新たに松江城が加わり国宝五城になりました。
明治の廃城令時、松江城の多くはことごとく取り壊されましたが、
せめて天守は、と地元有志の奔走により山陰で唯一残される天守となりました。
念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。
中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号
開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。
その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。
かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。
前記事では本堂までの参道を紹介してきましたが、
本記事ではいよいよ奥の院の投入堂をめざします。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
時は奈良時代、伊予の豪族・越智玉純が霊夢により熊野十二社権現を祀ったのを機に、
聖武天皇の勅願所となり、行基が薬師如来を刻んで本尊に祀って開基した。
この時の寺の名前は「安養寺」であった。
平安時代に衛門三郎という長者がいた。
ある日、托鉢の僧を弘法大師と知らずに托鉢をとり上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた。
以後三郎の八人の子どもがことごとく死んだ。
三郎は改心し、大師を探して四国巡拝の旅に出るが、出会えぬまま病に伏してしまう。
その時、枕元に弘法大師が現れ、「衛門三郎」と刻んだ石を授けると、
三郎は安堵して息を引き取る。
ちなみにこの時の巡礼旅が四国遍路のはじまりであり、衛門三郎はその開祖とされています。
その後、地方豪族の河野息利に男子が生まれたが、右の手を握ったまま開かないので
この寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と刻まれた石が出てきた。
そこでこの石を当山に収め、寺号を安養寺から石手寺に改めた。
...由来を聞くだけでもなかなか奇妙な感じのお寺ですが、その実態もなかなか。
それはまさにカオス。
愛媛県にある3つの国宝建造物はすべて松山市内にあります。
今回は松山総合公園の麓にある大宝寺に行ってきました。
残る二つの太山寺、石手寺のような四国八十八ヶ所霊場ではありませんが、
空海の興した真言宗系のお寺です。
古照山薬王院大宝寺。本尊は薬師如来。
飛鳥時代の大宝元年(701年)に小千(越智)伊予守玉興により創建。
現在残っている本堂が平安末期の阿弥陀堂形式を用いて鎌倉時代の建立で、
愛媛県最古の木造建造物であり、国宝建造物に指定されています。
松山市のほぼ中心部にありながら周囲は閑静な住宅街であり、
境内もそれほど大きくなく、併設されている住職の邸宅のほうが立派に見えるくらい、
簡素ですっきりした構成でした。
お遍路巡りの寺に指定されていないこともあってか、参拝者は自分以外に誰もなく、
ひっそりとした雰囲気でした。
まあ、自分はお寺のそういう雰囲気が好きなのだけど。
松山市太山寺町にある太山寺に行ってきました。
創建は飛鳥時代、開基は真野長者。
ある時、長者が商いで大阪に向かう途中、嵐に遭難。
そこで観音様に無事を祈願したところ、高浜の砂浜に無事流れ着く。
この報恩に、と一夜にしてこのお寺を築き上げた、という伝説が残っています。
鎌倉時代に創建された本堂は、桁行七間、梁間九間、屋根は入母屋造りの本瓦葺で
全国屈指の規模を誇り(県下最大)、国宝に指定されています。
ちなみに愛媛県ではこの太山寺本堂と石手寺仁王門、大宝寺本堂の3つが
国宝建造物に指定されています。
長い年月風雪に耐え抜いてきた屋根は独特の重みというか迫力を感じずにはいられない。
京都・東福寺に行ってきました。
二年前に東京のワタリウム美術館での展示を見て以来、訪れてみたかった場所。
「京都最大の伽藍」で紅葉の名所「通天橋」で有名なお寺ですが、
僕の一番のお目当ては重森三玲の「八相の庭」。
東福寺は大きく「通天橋・開山堂エリア」「方丈エリア」「本堂エリア」の3つのエリアに分けられます。
うち本堂エリアだけが無料拝観でき、他の2つはそれぞれ入場料が必要です。
残念ながら粉雪が舞う寒い日での観覧となりましたが、
やはりそこは素晴らしい空間なのでした。
[千光寺大師堂]
しまなみ海道広島側の玄関口、尾道。
「坂の街」「文学の街」「映画の街」。
林芙美子、志賀直哉などが居を構えた街であり、
小津安二郎監督の「東京物語」が撮影された街であり、
大林宣彦監督の「尾道三部作」の舞台となった街である。
しまなみ海道を自転車で横断するにあたり、まずはこの街を散策。
しかし、坂の街だけに自転車での移動はなかなか骨が折れるものでした...
【追記】
2017年5月、NHKの「ブラタモリ」で尾道を特集していました。
尾道は3つの山に囲まれた町ですが、
かつては今よりもっと平野部が少なく、海がもっと内陸部まで入り込んでいて、
尾根の際に張り付くように道が走り、人が集まっていました。
それが「尾道」という町の名前の由来です。
千光寺公園を見れば分かるように、尾道の山肌には巨岩がゴロゴロしており、
昔から神聖な場所とされていたことから、
尾道三山の千光寺・西國寺・浄土寺を中心に多くの寺社が建てられました。
また、尾道の近く(現在の世羅町辺り)には大田荘という大きな荘園があり、
尾道はこの大田荘でできる作物を積み出す港町として栄え、
多くの寺社も港町の商人たちによって建てられました。
こうして町が栄え、人が増えるに連れ、海を埋め立てて町を広くしていく一方で、
明治になって聖域と俗域の境目である山の際に鉄道が通ると、更に町は拡大してゆき、
寺社は土地を貸し出し、人々は山肌にも家を建てるようになりました。
そして埋め立てられることで尾道水道は川のように幅が狭くなり、
元々寺社が多かった山肌にも町は広がり、尾道は坂の町となったのです。