「国宝」と一致するもの

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夏休み三日目は福井県。

勝山市にある福井県立恐竜博物館を後にして坂井市丸岡町の丸岡城へ。


北陸地方唯一の現存天守である丸岡城は、
安土桃山時代の1576年に柴田勝家の甥・柴田勝豊によって建てられました。
現存十二天守の中では最も古いとされる一方で、
犬山城も創建1537年でこちらが最も古い、と主張していますが、
犬山城よりも39年も後の丸山城が最古を主張するのはどういうこと?

昭和9年に国宝指定されるも、昭和23年の福井地震で倒壊。
昭和25年施行の文化財保護法(新法)では重要文化財指定に留まった。
昭和30年に倒壊材を組み直し復元され、現在にその姿を留める。


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鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる 与謝蕪村


夏休み二日目、佐川美術館を後にして現存十二天守の一つ、彦根城へ。

関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として活躍した井伊直政が
その軍功により家康より近江国北東部を賜り、
その居城として彦根城が建てられました。

直政は戦傷が癒えず、築城が実現を待たずに死去してしまいますが、
その子直継の代になった1604年に築城を開始、20年の歳月を経て完成しました。
幕末に大老となった井伊直弼も藩主となるまではこの城で過ごしました。
明治の廃城令とともに解体の危機に遭いますが、
明治天皇が巡幸でこの城を通られた際に保存を命じられたことで破却を免れ、
現在まで往時の姿をよく留めています。

現存十二天守のひとつであり、天守・附櫓・多門櫓が国宝に指定されています。


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【訪問日:2017年10月31日】


前回の記事にて、ブログ再開宣言したものの、
なかなか気持ちが切り替わらず半年が経過。

...亀の歩みでの再開です。


岡山旅行記、後楽園を後にして最後は岡山市街地のはずれにある、吉備津神社へ。

お目当ては国宝の比翼入母屋造の本殿。


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岡山県高梁市の備中松山城をあとにして、備前市の旧閑谷学校へ。


閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670年)に岡山藩主・池田光政によって創建された、
現存する「世界最古の庶民のための公立学校」です。
池田光政は水戸の徳川光圀、会津の保科正之とともに江戸初期の三名君と称されています。

はじめて閑谷の地を目にした光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と賞賛、
地方のリーダーを養成する学校の設立を決めました。
そして藩主の命を受けた家臣・津田永忠はおよそ30年の年月をかけて、
元禄14年(1701年)に現在目にすることのできる学校の姿ができあがりました。
以降300年以上も当時の様相を色濃く残すものとして国の特別史跡に指定されているほか、
敷地内の25の建物物等が重要文化財に指定されてており、
中でも講堂は学校建築として唯一、国宝の指定を受けています。

また、平成27年には「近世日本の教育遺産群」として、
特別史跡旧弘道館、史跡足利学校跡、史跡咸宜園跡などとともに最初の日本遺産に認定されました。

丸みを帯びた石塀に色鮮やかな備前焼の瓦の建物群は、
儒学の教える「仁政」に重きをおいた光政の方針とも相まって、
伝統的な日本建築とはちょっと違った独特な雰囲気を醸し出しています。


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10年ぶりの尾道。

千光寺公園の駐車場に車を停め、千光寺から天寧寺と下りてきて、
国道沿いに東へどうすること10分。
最後の目的地、浄土寺に到着。


推古天皇24年(616年)聖徳太子開基と伝えられる。
鎌倉時代の終わり頃には荒れ果てていたが、定証上人により復興。
その20年後に焼失するも尾道の邑老道蓮・道性夫妻により堂宇再興の大願を発して再建、
現在に至る。

室町時代には武家・公家双方から手厚い外護を受ける。
特に足利氏による庇護は厚く、足利尊氏が九州に落ち延びる際には、
浄土寺にて戦勝挽回を祈願したところ、その後の戦いで見事に勝利し、
室町幕府の初代征夷大将軍となった。

南北朝時代の戦乱の世へとの移行に伴い再び荒廃するも、
江戸時代では地元豪商の庇護を受けることで支配階級からの保護から一転、
庶民信仰中心の寺院へと変貌した。


約700年も前の建造当初の様子をよく残しているとのことから、
境内の土地と建物(本堂・多宝塔)の両方で国宝の指定を受けています。
これはこの浄土寺と京都の清水寺のみです。


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国宝建築行脚の旅。
島根県2つめの国宝は出雲大社。


あらゆるものが豊かに、力強くある国「豊葦原の瑞穂国」を築かれた大国主大神は、
この国を天照大御神にお譲りになり、そのことを喜ばれた天照大御神は、
高天原の諸神を集められて大国主大神の宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を造営されました。
これが現在の出雲大社です。
なお、出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と読みますが、
正確には「いづもおおやしろ」と読むそうです。

このようにして目に見える世界を天照大御神が治め、
大国主大神は目に見えない世界を司り、
そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々を幸せに導いてくださるのだそうです。

年に一度、全国の神々は出雲大社の大国主大神の元に集まって、
人々の"しあわせ"の御縁を結ぶ会議「神議(かみはかり)」がなされます。
これが10月のことであり、この月を「神無月」と呼ぶ由縁です。
(逆に出雲の地では「神在月」になります)
神々が集まってなされる神議の催しを「神在祭」と呼びます。


出雲大社へは子どもの時分に親に連れられてきたことがありますが、
大人になってきちんと訪れるのははじめて。


小泉八雲旧居(小泉八雲記念館)【島根県松江市】

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とくに小泉八雲に詳しいわけでも興味があるわけでもないのですが。

この夏に愛媛の国宝・大宝寺に訪れたときに、
そのお寺に伝わる逸話を小泉八雲が「怪談」におさめたことを知りました。

今回中四国の国宝建築巡りで松江城に訪れることを決めたときに、
その近くに小泉八雲の記念館および旧居があることを知り、
お城とセットの共通入場券もあることだし、ということで訪れました。


パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日に、ギリシャのレフカダ島で
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれる。
当時はアイルランドはまだ独立しておらず、レフカダ島もイギリス領だったこともあり、
ハーンはイギリス国籍を有していました。
2歳のときにアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリック教育を受ける。
19歳のときに父母代わりだった大叔母の破産を機に単身渡米、ジャーナリストとして身を立てる。

シンシナティ、ニューオリンズ、カリブ海マルティニーク島と移り住み、
ニューオリンズ時代に万博で日本文化に出会い、興味を持つ。
そして1890年4月に日本の土を踏みます。
日本人女性と結婚し、帰化することで「小泉八雲」と名乗ることにした。
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力する一方で、
得意の語学力を生かして日本文化を欧米に伝える執筆活動にも尽力した。


よく知らないながらもなぜか気になるのは、
同じ「流浪の民」としての社会における位置づけが気になるからであろうか。


国宝・松江城【島根県松江市】

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鳥取の国宝・三佛寺投入堂をあとにして、
安来市の足立美術館を経由して松江入り。

島根は国宝二ヶ所を中心に巡りました。
まずは宍道湖の東端に建つ国宝松江城。

築城は関ヶ原の戦いでの戦功により出雲・隠岐両国を拝領した堀尾吉晴・忠氏親子。
最初はの月山富田城(現在の安来市)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
以後京極氏、松平氏と藩主が変わり明治維新まで藩政が続く。

昭和10年に一度国宝に指定されましたが、
昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたもの、
平成27年7月に国宝に再指定されました。
現存12天守のうち、これまで国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つでしたが、
新たに松江城が加わり国宝五城になりました。

明治の廃城令時、松江城の多くはことごとく取り壊されましたが、
せめて天守は、と地元有志の奔走により山陰で唯一残される天守となりました。


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念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。

中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号


開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。

その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。


かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。

前記事では本堂までの参道を紹介してきましたが、
本記事ではいよいよ奥の院の投入堂をめざします。


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念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。

中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号


開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。

その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。


かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。

まずは本堂までの参道部分をレポートします。