原爆ドームのそばにあるおりづるタワーに行ってきました。
元々は東京海上日動火災保険のビルが建っていたところを、
2010年に広島マツダが取得、2013年に改修計画が発表され、
三分一博志氏の設計で2016年に「おりづるタワー」としてリニューアルオープンしました。
広島出身で親が広島市内にお店を出していたこともあって、
市内へはよく足を運んでいましたが、おりづるタワーが建つ前にここに何があったか、
なんてまったく記憶にない。
まあオフィスビルなんて得てしてそんなもので、
おりづるタワーも3階から11階まではオフィスですが、
せっかくの好立地を生かして、1階と12階・最上階が一般開放されています。
12階以上は入場料が必要なのですが、これが大人1700円となかなかのお値段。
三分一さんの建築には2013年に犬島精錬所美術館、2016年に直島ホールと訪れ、
地球にやさしいエコロジカル建築はもちろん、
その環境思想をデザインにも反映させている点がとても好きになりました。
はたしておりづるタワーにもその三歩一節がふんだんに盛り込まれていました。
仕事で広島に一週間出張でした。
月曜から金曜までの五日間だったので、
その前後で前入り・延泊して久々の広島を満喫することに。
まず最初はずっと行きたいと思っていた広島市環境局中工場。
いわゆるゴミ処理場なのですが、
誰もが敬遠するこの場所をあえて社会にアピールする空間として、
谷口吉生が設計し、2004年に竣工しました。
ゴミ処理場そのものは平日のみの営業で、訪れたのは土曜日でお休みだったのですが、
外観及び2階のエコリウムと呼ばれる開放スペースは休日も自由に見学できます。
ゴミは人間が生み出した「悪」だと思う。
そのままだと美しい地球を汚染する。
人間はそのことを知りながら忌み嫌い、目を背けようとする。
ゴミと向き合うことは地球と向き合うことだ。
それを世間に積極的にアピールする空間がこれからの社会には必要なんじゃないだろうか。
訪問日:2018年4月17日
おおよそ2ヶ月前の話。
東京ステーションギャラリーでの隈研吾展をあとにして、
三菱一号館美術館で開催中のルドン展へ。
ルドンの絵は過去2回のオルセー展(1回目/2回目)などで、
何度か目にする機会がありましたが、単独での大々的な展覧会は今回がはじめて。
時代的には印象派の時代に生きた画家であり、第8回の印象派展にも出品しているものの、
印象派とは一線を画し、独自の路線を歩んだ。
風景画の巨匠に教えを受けるも、
彼が描く絵は風景と人間の内面とが混ざりあった独特の世界だった。
周囲に流されず、自分のアイデンティティを築き上げたという点で
どこか自分の心を刺激する画家の一人。
新居浜市美術館で開催中の東京富士美術館コレクション展に行ってきました。
本展は新居浜市市制施行80周年記念事業として開催されるもので、
古今東西の美術コレクション三万点を有する東京富士美術館の協力を得て、
東西の一級品65点が展示されています。
二部屋三部構成、と規模こそ小さなものだけれど、
なかなか濃いエッセンスが詰まった良い展示でした。
こんな田舎でこんな素晴らしい絵画の数々が見れるなんて驚きです。
(新居浜はそれでも愛媛の中では都会のほうなんですが^^;)
もう一つ驚いたのは作品が収められた額の豪華さ。
作品に風格を持たせるための額の重要性、というものを改めて感じました。
惜しむらくは展示品にかけられたガラスのカバー。
作品を保護するため、ということは重々承知しているのですが、
作品に映り込む自分の影が見える度に我に返って落胆してしまう。
それが作品の魅力を三割減じてしまっている。
額が立派なものだけに余計にそのことが悔やまれる。
カバーガラスの問題は別に本展に限ったことではなくて、
借り物で構成する企画展にはつきものの悩ましさ。
ここで思い出すのが2010年の横浜美術館でのドガ展。
目玉作品の「エトワール」にもガラスがかけられていたのだけど、
正面から見るとガラスが消える。
特殊なガラスなのか、特殊なライティングなのか、はたまたただの気のせいなのか。
いまだに分からないけど。
いつかカバーガラスに悩まされずに気軽に絵画鑑賞ができる日が来るといいなあ。
[リノベるショールーム]
木工先進地視察で岡山県西粟倉村へ行ってきました。
宇和町で古民家再生での地域づくりに取り組んでおられる方、
八幡浜で製材業を営んでおられる方と三人で。
西粟倉村の取り組みはFacebook、ホームページで知ったのですが、
まずはそのホームページの美しさ、センスの良さに惹きつけられました。
さぞかしセンスの良いデザイナーが専属で頑張っているのかなあ、
と勝手に思ってたのですが実際訪れてみるとちょっと状況は違ってました。
西粟倉村では2008年に百年の森構想を打ち出しました。
現在50年生の西粟倉の森を50年先を見据えた森づくりを目指そう。
その構想の元に、西粟倉村行政と森林組合、
それと活動を推進するコンサル会社の三者協働により
西粟倉村の新しい森づくりがスタートしました。
事業は良い森づくりを行なうための「百年の森林創造事業」と、
経済活動、都会へのアピールをしていくための「森の学校事業」の
二本立てで進められました。
その森の学校事業を進める組織が株式会社「森の学校」です。
廃校跡を整備してショップやカフェ、ショールーム、イベント会場などを設置し、
活動の拠点としています。
かつて西粟倉村にも近隣市町村との合併話が持ち上がっていたそうですが、
最終的には2004年に合併協議から離脱しました。
この選択が良かったのだと僕は思います。
下手に地域組織を大きなものとせず、動きやすくまとまりやすいスケールとしたことで、
山林を地域資源として再活用していく、というひとつの大きな目標に向かうことができた。
Small Scale, Large Depth.
ネットワークは広げるためのものだけじゃない。
深く繋がるためのものでもある。
[ギュスターヴ=アドルフ・モッサ「彼女」(1905年)]
大塚国際美術館での展示作品。
会場内は撮影可能ということで、気の向くままにお気に入りの作品を撮影しました。
本記事では象徴主義、ナビ派、ウィーン分離派、フォービスム、表現主義、エコール・ド・パリ、
キュビスム、ダダイスム、シュルレアリスムをピックアップ。
絵画の様式は、秩序と無秩序、安定と不安定、静的と動的を繰り返すものだけど、
決して同じことの繰り返しではなく、時代背景や情勢によって、
常に新しい要素を内包させてゆく。
それは樹木が根本から無数に枝分かれしてゆくかが如く。
枝別れたものが行き着く先はどんなものなのか。
それはすべてが混ざり合うカオスなのだろうか。
すでに現代アートというジャンルが一つの様式として括れないところに来ているのか。
はたまた、単に今を生きる自分たちには現代アートを客観的に眺めることができず、
数世紀、数十世紀先の人たちが今のアートやエンタメを眺めて様式化するのだろうか。
...あくまで素人の自分なりの独自の解釈です。
知識不足、勘違い、根拠に欠ける部分も多々あることをご了承ください。
照明がやや暗めで暖色系のため、作品画像はピンぼけ気味でやや赤っぽくなっています。
また、陶板特有の光沢もあります。
さらに傾き補正やレンズ補正をかけているため、
必ずしも作品(本物)の内容や構成を忠実・正確に表すものではないことをあらかじめご了承ください。
「だいたいこんな感じのもの」という感じで見ていただけたらと思います。
高知市内の高知駅へ。
夕刻の帰宅ラッシュにぶつかってしまい、渋滞の中へ。
久々の渋滞経験。
身体が田舎モードになりつつあるだけにストレスが溜まる溜まる。
...別に都会が恋しくてここに来たわけじゃない。
梼原町にある四つの隈建築に加えて、高知市にある二つの内藤建築。
駅は都市の顔である。
駅を見れば、その都市がどういう都市か、だいたい分かる(...と思う)。
大学で建築に興味をもつようになり、
さらにその構造に興味をもつようになり、
自然材の木に興味をもつようなり、
...僕は現代の「箱」社会に疑問をもつようになった。
曲面で構成された人間の体を包むものとして、
直線で構成された箱は果たして最適な空間なのだろうか。
有機体を包むものは、有機的な空間と材料であるべきではないのか。
大アーチを描くかまぼこ状の屋根に、未来の建築の姿を見る。
[梼原町役場]
『負ける建築』を読んで以来、隈研吾氏のファンです。
遊子川のとなり町、高知県梼原町にはその隈建築が四つもあるなんて。
ああ、なんて羨ましい。
梼原町役場とまちの駅、雲の上ホテルと雲の上ギャラリー。
今回はそのうちの二つ、梼原町役場とまちの駅をご紹介。
R197から梼原の中心地へのメインストリートにこの二つの建物はあります。
隈研吾独特のストライプデザインがここでも用いられているわけですが、
不思議とどの建物も、その地域性とマッチしちゃうんだな。
斬新だけど、伝統とケンカしない。
これまで培った伝統を壊すことなく、新しいものを取り入れる。
まさに地域おこしの理想がここにあるような気がします。
ああ、自分もこういうものを作りたい。
「こんなふううにさあ、やけくそに片づいている部屋って、あたし、苦手なんだ。芸術家としてはね・・・ああいう線にいらいらしちゃうの。壁だの床だの、部屋の角々のまっすぐな線よ、四角い箱になっちゃうでしょーお棺みたい。箱を消しちゃうただひとつの方法は、一杯ひっかけること。そうするとあの線がみんなゆらゆら揺れだすから、この世が愉しくなっちゃうんだ。ものがみんなまっすぐで、こんなふうにキチーンとしてると気味が悪くなっちゃう。ゾォーッ。あたしがここに住んだら、しょっちゅう酔ってなきゃだめ」(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』)
酒が飲めない僕は...
ふと気づけば、卒業制作最終プレゼン前夜。
卒制の最終追い込みと祖父の葬儀が重なりながらも、
なんとか作品の最終提出を完了。
その後はその疲れと引きはじめの風邪にやられて丸三日家で寝てました。
今週頭から各コースで最終発表がはじまっていて、
月曜日がビジュアル、火曜がデジタル、と続き、今日水曜日はプロダクト。
体調もだいぶ回復してきたし、身体を臨戦態勢にしておきたい、
という意味もあって、プロダクトの発表を見にいくことに。
思えば、明日がこの学校で行う最後のプレゼンだな。
怖いのは酷評されることじゃない。
やれるだけやったことを出し切れずに終わってしまうこと。
二十年前の高専、六年前のデジハリでの中途半端な卒制にケリをつけなければ。
三度目の正直で。
[エトワール(1876-77)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
西洋美術史の印象派の授業でドガを学びました。
モネやルノワールなど代表的な印象派画家はそこそこに、
印象派の中でも異色な存在であるこの画家について、
およそ二週にわたってじっくり解説。
折しもドガ展が横浜美術館で開催中。
日曜美術館でもピックアップされたこともあって、
居ても立ってもいられず、行ってきました。
けっこうな混雑でしたが、ボリューム的にもちょうどよく、
常設展も含めて2時間でじっくり鑑賞できました。
本名イレール=ジュルマン=エドガー・ド・ガス。
貴族の出と見られるのが嫌で、「ド・ガス」を短縮した呼び方で
自らを名乗るようになる。
エコール・デ・ボザールで絵画・彫刻を学ぶ。
アングルからの「線を描きなさい、記憶からも、目に見えるものからも」
という助言により、念入りに構想された膨大なデッサンが生まれる。
目の病により明るい陽光の下で長時間絵を描くことができなかったため、
彼の作品は圧倒的に室内のものが多い。
印象派の多くの画家が光を求めて戸外へと出かけ、
そこにキャンパスを立て、いきなり絵の具を重ねていたのに対し、
彼が印象派の中でも異色の存在であったことが伺えます。
他の印象派画家のように筆触分割も使わなかった。
そんな彼がなぜ、8回のうちの7回も印象派展に出品したのか。
アカデミズムに学び、アングルの助言に忠実に従いながらも、
彼はアカデミズムの枠に収まる器ではなかった。
絵画を単なる「美の器」として捉えるのではなく、
あるがままを伝える、「真実の器」として捉えたかったのではないだろうか。