最終決戦前夜

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「こんなふううにさあ、やけくそに片づいている部屋って、あたし、苦手なんだ。芸術家としてはね・・・ああいう線にいらいらしちゃうの。壁だの床だの、部屋の角々のまっすぐな線よ、四角い箱になっちゃうでしょーお棺みたい。箱を消しちゃうただひとつの方法は、一杯ひっかけること。そうするとあの線がみんなゆらゆら揺れだすから、この世が愉しくなっちゃうんだ。ものがみんなまっすぐで、こんなふうにキチーンとしてると気味が悪くなっちゃう。ゾォーッ。あたしがここに住んだら、しょっちゅう酔ってなきゃだめ」(ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』)

酒が飲めない僕は...


ふと気づけば、卒業制作最終プレゼン前夜。


卒制の最終追い込みと祖父の葬儀が重なりながらも、
なんとか作品の最終提出を完了。
その後はその疲れと引きはじめの風邪にやられて丸三日家で寝てました。

今週頭から各コースで最終発表がはじまっていて、
月曜日がビジュアル、火曜がデジタル、と続き、今日水曜日はプロダクト。
体調もだいぶ回復してきたし、身体を臨戦態勢にしておきたい、
という意味もあって、プロダクトの発表を見にいくことに。


思えば、明日がこの学校で行う最後のプレゼンだな。

怖いのは酷評されることじゃない。
やれるだけやったことを出し切れずに終わってしまうこと。


二十年前の高専、六年前のデジハリでの中途半端な卒制にケリをつけなければ。
三度目の正直で。


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この大学に入る前、某電機メーカーで、
ハードウェアエンジニアとして七年、
ソフトウェアエンジニアとして七年働いた。
決して有能なエンジニアとは言えなかったけど、
それでもソフトウェアがハードウェアを凌駕していく様を目の当たりにした。
以前はハードウェアで実現されていた機能が、ソフトウェアに置き換わり、
ソフトウェア設計に割かれる工数は増大した。
当時はそのことになんの違和感も感じなかった。


しかしこの大学に入って学ぶうちに、
自分がソフトよりもハードを求めていることに気づくのと同時に、
ソフトウェア重視の社会に違和感を感じるようになった。

...その疑問が僕の卒業制作の出発点になっている。


どんなにソフトが優れていても、
それを収めるハードがお粗末では、なんにもならない。

今の社会、ハードはなんでも箱形だ。
箱にしておけばとりあえず無難だからだ。

箱のすべてが悪いとは言わない。
美しい箱だってある。
しかし、箱はいくつ重ねても同じ箱である。
エコノミカルに見れば、これほどスマートなかたちもないが、
ヒューマンスケールで見れば、これほど退屈なかたちもない。

...この二番目の疑問が、作品の造形の原点となっている。


時代の流れに逆行する気はないけれど、
このままハードを捨て置く状況を放置しておいて良いわけでもない。
どんなに科学が進んでも、物質と精神とを切り離すことはできないのだから。
いや、切り離すべきではないのだから。


ソフトウェアが進化するように、ハードウェアも進化しなくては。
たとえ「重さ」を捨て去ることができなくても、
重量を持たないソフトの良さの幾分かを取り入れることはできるはずだ。

ソフトのコピペによる大量生産性と、柔軟なカスタマイズ性を
ハードにも適用すれば、ハードだって進化できる。

...これが僕の卒業制作の目的である。


ベースとなるユニットにある程度の「不規則性」を含ませて、
このユニットを反復すれば、その不規則性は倍増されて、
ユニットのかたちからは想像できない、とてもユニークな全体形が生成される。
組み合わせ方を変えれば、状況に応じた最適形を生成することができる。
ソフトウェアの利点を持ったハードウェア。

...これが僕の卒業制作のアプローチである。


そしてこのような造形アプローチは、
最終的には、森のような自然が持つ快適性へと行き着く。

...これが今回の卒業制作で見えてきたゴールである。


よし、大丈夫。

明日はちゃんと言える。