鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる 与謝蕪村
夏休み二日目、佐川美術館を後にして現存十二天守の一つ、彦根城へ。
関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として活躍した井伊直政が
その軍功により家康より近江国北東部を賜り、
その居城として彦根城が建てられました。
直政は戦傷が癒えず、築城が実現を待たずに死去してしまいますが、
その子直継の代になった1604年に築城を開始、20年の歳月を経て完成しました。
幕末に大老となった井伊直弼も藩主となるまではこの城で過ごしました。
明治の廃城令とともに解体の危機に遭いますが、
明治天皇が巡幸でこの城を通られた際に保存を命じられたことで破却を免れ、
現在まで往時の姿をよく留めています。
現存十二天守のひとつであり、天守・附櫓・多門櫓が国宝に指定されています。
訪問日:2018年4月17日(火)
おおよそ2ヶ月前の話。
出張で久々に上京しました。
最終日は移動のみで飛行機の時間が夕方だったので、
その待ち時間を利用して、久々のアート巡り。
...といっても2スポットのみだけど。
まずは東京ステーションギャラリーで開催中だった建築家・隈研吾の展示。
9年前に開催されたTOTOギャラリー「間」での展示以来二度目。
9年前でもすでにかなり有名だったとは思うのだけれど、
個展の範疇を超えない小規模だったのに対し、
今回は一流のアーティストとして見応えあるボリュームで楽しむことができました。
久々のブログの更新です。
じつは昨年11月に転職しまして、冬が忙しい職種ということもあって、
昨年10月末に出かけた旅行記もまだ残っていたのですが、
休みなしでどこへも行けないどころか、ブログを更新する間もありませんでした。
まだまだ繁忙期は続きますが、だいぶ時間の余裕が出てきたので、
少しずつ再開していきたいと思います。
昨年10月末の旅行記、岡山県の閑谷学校に続いては、
岡山駅近く、旭川をはさんで岡山城の北に広がる岡山後楽園に行ってきました。
江戸時代を代表する大名庭園の一つであり、
水戸偕楽園、金沢兼六園と並ぶ日本三名園の一つでもあります。
本園は1687年、岡山藩主・池田綱政公が家臣・津田永忠に命じて1687年に着工、
14年の歳月を経て1700年に完成しました。
その後も藩主の好みで手を加えられたものの、江戸時代の姿を大きく変えることなく
現在まで伝えられており、昭和27年に国の特別名勝に指定されました。
ちなみに池田綱政は名君として名高い池田光政の嫡男であり、
津田永忠はその光政によって見出された家臣であり、
光政の命により備前市の旧閑谷学校の建設にも携わっています。
作庭当初は城の後方にあることから「後園」と呼ばれていましたが、
明治になって、「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから
「後楽園」と改められました。
人より先に憂える場所が岡山城で、人より後れて楽しむ場所が後楽園といったところでしょうか。
時の名君が、天下の楽しみに遅れて楽しむために作った庭園とはいかなるものだったのか。
この目でしかと見届けたいと思います。
建築に何が出来るのか、そもそも建築とは何なのかー私は建築の本質とは、人工と自然、個人と社会、現在と過去といった、人間社会にまつわる多様な事象のあいだの関係づくりと考えています。その意味で、人々共に木を植えて街に緑を取り戻す活動もまた、私にとっては建築です。既にある風景、社会制度の中に入り込んでいって、予定調和から外れた試みをしようとすれば、当然、摩擦や衝突が起こります。建築の原点たる住まいの問題、空間の光と影といった美学状の問題、あるいは都市空間、場所の風土の問題。つくる度にさまざまなテーマに直面し、それらに建築で応えるべく、悪戦苦闘してきました。その全てが挑戦でした。
半年ぶりの東京2日目。
朝一で六本木の国立新美術館へ。
建築家・安藤忠雄の半世紀に渡る建築活動を紹介する展覧会。
ギャラリー「間」、21_21、ANDO MUSEUMなど、
過去何度か安藤さんの展示は見に行ってますが、
これほど大規模なのははじめて。
270点もの資料や模型で89のプロジェクトを紹介する過去最大規模のもの。
この展示を見るだけでもよくまあ、これだけやってきたもんだと感服するのですが、
一方で安藤さんの「連戦連敗」という本では、
実現しなかったプロジェクトも山ほどあったというのだから、
展示ボリュームをはるかに超えるエネルギーを安藤さんは建築に注ぎ込んできた。
そう考えると、さらにその感服度合いが大きくなります。
それでも東京という日本でもっとも大きな街で、
日本で最も有名な建築家は自分の回顧展を自分の設計した美術館で開催できなかった。
そこに日本の建築界の窮屈さを垣間見たような気がします。
その意味においても、晩年に差し掛かって身体がボロボロになってなお、
夢を抱き続ける安藤さんの挑戦はまだまだ続くのでしょう。
「目標があるうちは青春だ」
自分もそういう人生をおくりたいと思う。
尾道散策。
山上の千光寺から麓の国道に降りてくる途中に見える見事な三重塔。
三重塔以外の本堂や山門はどこだろうと思いつつ、
見つけられぬまま通り過ぎること数回。
今回ようやくお寺の全貌を目にすることができました。
三重塔以外にも五百羅漢や直原玉青の襖絵など、見どころ満載のお寺でした。
とくに小泉八雲に詳しいわけでも興味があるわけでもないのですが。
この夏に愛媛の国宝・大宝寺に訪れたときに、
そのお寺に伝わる逸話を小泉八雲が「怪談」におさめたことを知りました。
今回中四国の国宝建築巡りで松江城に訪れることを決めたときに、
その近くに小泉八雲の記念館および旧居があることを知り、
お城とセットの共通入場券もあることだし、ということで訪れました。
パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日に、ギリシャのレフカダ島で
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれる。
当時はアイルランドはまだ独立しておらず、レフカダ島もイギリス領だったこともあり、
ハーンはイギリス国籍を有していました。
2歳のときにアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリック教育を受ける。
19歳のときに父母代わりだった大叔母の破産を機に単身渡米、ジャーナリストとして身を立てる。
シンシナティ、ニューオリンズ、カリブ海マルティニーク島と移り住み、
ニューオリンズ時代に万博で日本文化に出会い、興味を持つ。
そして1890年4月に日本の土を踏みます。
日本人女性と結婚し、帰化することで「小泉八雲」と名乗ることにした。
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力する一方で、
得意の語学力を生かして日本文化を欧米に伝える執筆活動にも尽力した。
よく知らないながらもなぜか気になるのは、
同じ「流浪の民」としての社会における位置づけが気になるからであろうか。
三徳山三佛寺投入堂参拝でかいた汗を三朝温泉で洗い流した後、
西に移動して島根県安来市にある足立美術館へ。
本当はその前に鳥取県伯耆町にある植田正治写真美術館に寄りたかったけれど、
自宅を出るのが遅れたのと、思ったより長く三徳山に滞在してしまったため、
時間がなくなってしまい、やむなく今回はパスすることにしました。
三朝温泉から足立美術館までは山陰道でおよそ1時間半。
午後3時ちょっと前に到着して、閉館間際の5時近くまでおおよそ2時間、
名園と名画を堪能しました。
足立美術館は実業家・足立全康氏のコレクション約1500点を
展示する美術館として、昭和45年に開館。
特に約120点を数える横山大観のコレクションが有名で、常時20点前後を展示しています。
そのほか竹内栖鳳、川合玉堂、橋本関雪、榊原紫峰、上村松園、鏑木清方など
近代日本画壇の巨匠たちの作品がズラリ。
また、河井寛次郎と北大路魯山人の二巨匠の陶芸作品も充実しています。
本美術館の最大の特徴は五万坪に及ぶ広大な日本庭園。
「庭園もまた一幅の絵画である」という言葉が表すように、
全康自らが心血を注いで見事な日本庭園を創りあげました。
アメリカの日本庭園専門誌が行う日本庭園ランキングにおいて、
足立美術館は2016年時点において14年連続日本一に選ばれています。
9月の終わりからえひめ国体がはじまりました。
愛媛での開催はじつに64年ぶり、愛媛単独では初の開催だとか。
国体は「国民体育大会」の略ですが、開催されるのはスポーツだけじゃないんですよね。
「文化プログラム事業」なるものがあって、文化イベントも開催されているのです。
愛媛県美術館で開催されている「紫舟」作品展もその一つ。
国体の開会式前日の9月29日には天皇陛下と皇后陛下が本展を鑑賞され、
紫舟さん自らが案内されていました。
「天皇陛下が、作品価値の定まっていない現存作家の作品展を御覧になることは極めて稀で、
まして、作家本人が自身の作品をご案内ご説明できることは非常に貴重な機会」
...なのだそうです。(オフィシャルサイトより)
このニュースがテレビで流れているのを見て本展を知りました。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」のタイトルを手掛けた書家・アーティストなんですね。
通常紙の上に書かれる二次元の書が、厚みを持った三次元作品となっている。
これは新しい書の形だ。書の進化だ。
これはもう見に行くっきゃない、ということでさっそく出かけてきました。
「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠地として、
1936年に日本民藝館が東京駒場に思想家の柳宗悦により企画され、
大原美術館を設立した実業家の大原孫三郎をはじめ多くの賛同者の援助を得て設立されました。
柳は「民藝品」を次のように定義しています。
- 実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
- 無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
- 複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
- 廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
- 労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
- 地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
- 分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
- 伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
- 他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。
その後民藝運動は全国へ拡散し、運動の賛同者らによって日本各地に民藝館が建てられました。
各地の民藝館は日本民芸協会という組織で繋がっていますが、
中には「民藝」の解釈を異にするものも出てくる。
大阪支部の三宅忠一は柳宗悦の民藝ネットワークから離れ、
日本工芸館を拠点とする日本民芸協団を設立しました。
愛媛では1967年に当時の日本民藝協会長であった大原総一郎(大原孫三郎の息子)氏の提唱に
地元の有志、企業が応え、西条市の中心地の堀に囲まれた旧陣屋跡地に
「愛媛民藝館」が四国における民藝運動拠点となるべく設立されました。
設計は倉敷出身で大原美術館分館や倉敷アイビースクエアなどを手がけた浦辺鎮太郎。
在京時代に駒場の日本民藝館に訪れる機会がないまま愛媛に移住して6年、
愛媛にも民藝館があることをはじめて知り、喜び勇んで出かけてきました。
ちなみに高松の栗林公園内に讃岐民芸館がありますが、
日本民芸協会には入ってないようです。
日本民芸協団に入っているかどうかは不明。
民芸にもいろいろあるんですね。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
時は奈良時代、伊予の豪族・越智玉純が霊夢により熊野十二社権現を祀ったのを機に、
聖武天皇の勅願所となり、行基が薬師如来を刻んで本尊に祀って開基した。
この時の寺の名前は「安養寺」であった。
平安時代に衛門三郎という長者がいた。
ある日、托鉢の僧を弘法大師と知らずに托鉢をとり上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた。
以後三郎の八人の子どもがことごとく死んだ。
三郎は改心し、大師を探して四国巡拝の旅に出るが、出会えぬまま病に伏してしまう。
その時、枕元に弘法大師が現れ、「衛門三郎」と刻んだ石を授けると、
三郎は安堵して息を引き取る。
ちなみにこの時の巡礼旅が四国遍路のはじまりであり、衛門三郎はその開祖とされています。
その後、地方豪族の河野息利に男子が生まれたが、右の手を握ったまま開かないので
この寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と刻まれた石が出てきた。
そこでこの石を当山に収め、寺号を安養寺から石手寺に改めた。
...由来を聞くだけでもなかなか奇妙な感じのお寺ですが、その実態もなかなか。
それはまさにカオス。