しまなみ海道の島の一つ・因島にある因島水軍城に行ってきました。
どうしてもここに行きたかった、というわけではなくて、
この後のお目当ての場所に向かう船の出発時間までの間、
どこか行けるところないかなあ...と探してて見つけたのがここ。
南北朝時代に村上師清という人物が天皇の命により瀬戸内に入り、
因島に24もの城を築きました。
師清には三人の息子がいて、長男・義顕は能島を、次男・顕忠は来島を、
そして三男・顕長を因島に配置しました。
これが村上水軍のはじまりです。
村上水軍はいわゆるパイレーツ(海賊)のような野蛮な強盗団というよりは、
自衛隊のような専守防衛を旨とする治安維持組織であったと言われます。
原爆ドームのそばにあるおりづるタワーに行ってきました。
元々は東京海上日動火災保険のビルが建っていたところを、
2010年に広島マツダが取得、2013年に改修計画が発表され、
三分一博志氏の設計で2016年に「おりづるタワー」としてリニューアルオープンしました。
広島出身で親が広島市内にお店を出していたこともあって、
市内へはよく足を運んでいましたが、おりづるタワーが建つ前にここに何があったか、
なんてまったく記憶にない。
まあオフィスビルなんて得てしてそんなもので、
おりづるタワーも3階から11階まではオフィスですが、
せっかくの好立地を生かして、1階と12階・最上階が一般開放されています。
12階以上は入場料が必要なのですが、これが大人1700円となかなかのお値段。
三分一さんの建築には2013年に犬島精錬所美術館、2016年に直島ホールと訪れ、
地球にやさしいエコロジカル建築はもちろん、
その環境思想をデザインにも反映させている点がとても好きになりました。
はたしておりづるタワーにもその三歩一節がふんだんに盛り込まれていました。
夏休み三日目は福井県。
勝山市にある福井県立恐竜博物館を後にして坂井市丸岡町の丸岡城へ。
北陸地方唯一の現存天守である丸岡城は、
安土桃山時代の1576年に柴田勝家の甥・柴田勝豊によって建てられました。
現存十二天守の中では最も古いとされる一方で、
犬山城も創建1537年でこちらが最も古い、と主張していますが、
犬山城よりも39年も後の丸山城が最古を主張するのはどういうこと?
昭和9年に国宝指定されるも、昭和23年の福井地震で倒壊。
昭和25年施行の文化財保護法(新法)では重要文化財指定に留まった。
昭和30年に倒壊材を組み直し復元され、現在にその姿を留める。
岡山県高梁市にある備中松山城に行ってきました。
愛媛に住む者としては、「松山城」といえば地元松山にあるお城を思い浮かべるのですが、
じつは瀬戸内海を隔てた岡山にも松山城があります。
愛媛の松山城と区別するために岡山の方は一般的に「備中松山城」と呼ばれています。
ちなみにどちらの松山城も現存天守を擁しています。
標高430メートルの臥牛山山頂にある山城であり、日本三大山城の一つとされています。
臥牛山は「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなっているのですが、
その山容が草上に突っ伏しているように見えるのがその名前の由来となっています。
現在は小松山エリアにのみ天守をはじめとした城郭が残っていますが、
かつては臥牛山全域が一大要塞となっていたようです。
城の歴史は鎌倉時代に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任じられた秋庭三郎重信により
大松山エリアに砦が築かれたことにはじまり、その後小松山移り、
目まぐるしく城主が変わったみたいですが、
現在残っている城郭は江戸時代に小堀正次・小堀政一(遠州)父子、水谷勝宗らにより
修築されたものだとされています。
半年ぶりの東京2日目。
六本木の国立新美術館で安藤忠雄展を見た後、
日本橋の三井記念美術館で開催中の超絶技巧展を見に行こうと地下鉄での移動中、
人身事故かなんだかで、電車がまさかのストップ。
当面動きそうもなく、このままだと飛行機の時間に間に合わなくなる。
そこでプランB。
上京前に日曜美術館を見て少し気になっていたものの、
時間の都合上あきらめていた菊池寛実記念智美術館へ行くことに。
折しも電車が止まったのが最寄り駅の神谷町。
これはもうこちらの美術館に行きなさい、という神のお導き。
神谷町駅からゆるやかな坂道を上がった先のホテルオークラの向かいに建つ一風変わった建物。
西久保ビルというそうですが、中世に西久保城というお城があったことに由来するそうです。
美術館はこの建物の地下にあるわけですが、
地上に奇抜なビル、地下に美術館というスタイルは山種美術館に似てますね。
しかしこの美術館はスバラシイ。
近年まれに見る大当たりの美術館でした。
とくに小泉八雲に詳しいわけでも興味があるわけでもないのですが。
この夏に愛媛の国宝・大宝寺に訪れたときに、
そのお寺に伝わる逸話を小泉八雲が「怪談」におさめたことを知りました。
今回中四国の国宝建築巡りで松江城に訪れることを決めたときに、
その近くに小泉八雲の記念館および旧居があることを知り、
お城とセットの共通入場券もあることだし、ということで訪れました。
パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日に、ギリシャのレフカダ島で
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれる。
当時はアイルランドはまだ独立しておらず、レフカダ島もイギリス領だったこともあり、
ハーンはイギリス国籍を有していました。
2歳のときにアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリック教育を受ける。
19歳のときに父母代わりだった大叔母の破産を機に単身渡米、ジャーナリストとして身を立てる。
シンシナティ、ニューオリンズ、カリブ海マルティニーク島と移り住み、
ニューオリンズ時代に万博で日本文化に出会い、興味を持つ。
そして1890年4月に日本の土を踏みます。
日本人女性と結婚し、帰化することで「小泉八雲」と名乗ることにした。
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力する一方で、
得意の語学力を生かして日本文化を欧米に伝える執筆活動にも尽力した。
よく知らないながらもなぜか気になるのは、
同じ「流浪の民」としての社会における位置づけが気になるからであろうか。
鳥取の国宝・三佛寺投入堂をあとにして、
安来市の足立美術館を経由して松江入り。
島根は国宝二ヶ所を中心に巡りました。
まずは宍道湖の東端に建つ国宝松江城。
築城は関ヶ原の戦いでの戦功により出雲・隠岐両国を拝領した堀尾吉晴・忠氏親子。
最初はの月山富田城(現在の安来市)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
以後京極氏、松平氏と藩主が変わり明治維新まで藩政が続く。
昭和10年に一度国宝に指定されましたが、
昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたもの、
平成27年7月に国宝に再指定されました。
現存12天守のうち、これまで国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つでしたが、
新たに松江城が加わり国宝五城になりました。
明治の廃城令時、松江城の多くはことごとく取り壊されましたが、
せめて天守は、と地元有志の奔走により山陰で唯一残される天守となりました。
愛媛県宇和島市内にある宇和島城に行ってきました。
宇和島へは2014年に一年間、職業訓練校にほぼ毎日通いました。
お城のそばも何度も通ったけれど、結局中へ入ることは一度もなかった。
近くにあっても意識できないものってたくさんあるんだな。
宇和島は海のそばの街なので、基本的に平野地形なのですが、
お城は鬱蒼とした森山の中にある平山城です。
松山城と同じく街のど真ん中にこんな森があったのか、という驚きがあります。
築城は1601年、藤堂高虎によってなされました。
その後高虎は今治に転封となり、今治城も築いています。
高虎転封後は伊達政宗の長子秀宗が1615年に入城、
二代宗利の時に天守以下城郭の大修理が行われ、1671年に完成、
その姿を現在にとどめています。
宇和島城の天守は松山城天守とともに現存する12天守のうちの一つであり、
県内に現存天守が2つあるのは愛媛県だけ。
愛媛県はこの2つのお城をもっと誇っていいと思う。
今治城に行ってきました。
今治城は藤堂高虎が関ヶ原の戦いの戦功に伊予半国20万石を拝領し、
1602年に築城を開始、1604年〜1608年に完成させました。
枡形虎口による鉄御門の強固な守り、
堀を二重三重に巡らせて、瀬戸内海の海水を引き入れて、
船が城郭まで入れるようになっていた日本屈指の海城でした。
Wikipediaによれば、築城当時に天守が建造されたかどうかの一次資料がなく、
その存在については諸説あるそうで、
現在の天守は1980年に多門櫓、武具櫓とともに再建された史実に基づかない模擬天守です。
その後1985年に御金櫓、1990年に山里櫓、そして2007年に鉄御門が再建されました。
現在は二の堀、三の堀は埋め立てられ、本丸と二の丸・三の丸を囲む堀のみですが、それでもこの壮観さ。
往時はさぞかし圧倒的だったことでしょう。
返す返すも廃城令という残念な施策が悔やまれます。
[初代城主・加藤嘉明]
2011年にはじめて愛媛に来たときに松山城に登った。
そのときは時間の都合上、三の丸や二の丸をすっ飛ばして、本丸まで登ったものの、
天守閣の中には入らず引き返した。
それから6年。
ようやく松山城への核心へと迫る。
松山城はお堀に囲まれた平地部の三の丸、
勝山山麓にあって政務や藩主家族の居住場所であった二の丸、
標高132メートルの勝山山頂部に建てられた本丸が、
南西から北東へと斜めに連なる平山城です。
築城は1602年に加藤嘉明により取りかかるが、
完成前に会津藩へ転封となり、二代目城主となった蒲生忠知により
二の丸・三の丸を含む平山城・松山城を完成させたものの、
子供がいなかったため蒲生家は断絶、松平定行が三代目藩主となり、
以後明治維新までの235年間松平家が城主を務めた。
天守は1784年の落雷で一度焼失し、ペリーの黒船来航の翌年(1854年)に再建されました。
それが現在の天守。
現在日本には12の現存天守が残っていますが、
松山城はその中で唯一、親藩である証の「葵の御紋」が付されたお城なのです。
そして現存天守の中でもっとも新しいものでもある。