丸亀をあとにして、高松は五色台へ。
五色台は「香川県の中央部から瀬戸内海にせり出した溶岩台地」です。
紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰という五色の名の付いた五つの山があり、
そのうちの一つ、青峰に四国八十八ヶ所霊場第八十二番、根香寺(ねごろじ)があります。
平安時代初期、この地に霊力を感じた弘法大師がまず「花蔵院」を建立します。
その後この地を訪れた弘法大師の甥である智証大師がお告げにより千手観音像を彫り、
千手院という堂宇を建てて安置しましたが、
像を彫るのに使った霊木が芳香を放つようになったことから、
花蔵院、千手院をあわせて「根香寺」と呼ぶようになったそうです。
内藤建築のある牧野植物園。
五台山という丘の上にあるのですが、
その植物園の隣に立派なお寺があるではないですか。
四国八十八ヶ所霊場の第三一番、竹林寺。
ここには、五重塔や仏陀像、日本庭園まであって、
これまで訪れた霊場(...といってもまだ四つですが)の中でも、
とりわけ立派なもの。
今回はとくに八十八ヶ所巡りをしてたわけではないのだけど、
立派な寺院を目の前にして素通りするわけににもいくまい。
日本の宗教建築は主にインドや中国から派生したもので、
それらの建築との共通点が多く見られるけれど、
それでもよく見ると、日本建築独自の雰囲気というものがあり、
その正体を見極めることが、日本の良さを再認識することになる。
「良さ」は新しく作る必要はない。
目の前にあるものをしっかり見つめるだけで、見えてくるものがある。
宇和島市三間の仏木寺・龍光寺に続いて西予市宇和の明石寺へ。
正確には「源光山 円手院 明石寺(げんこうざんえんしゅいんめいせきじ)」。
宇和の街中からちょっと外れて山の中に入ったところにあります。
歴博や宇和文化の里からも近く、800mほど山の中を歩いて行き来できます。
しかしやはりそこは霊場、宇和の街がすぐそばにあるとは思えないほどの静けさ。
今回訪れた三つの霊場の中では一番立派だったような気がします。
創建は6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が、
唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るために伽藍を建立したことにはじまります。
その後、734年に寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し修験道の中心道場としました。
822年に弘法大師がこの地を訪れた際には荒廃していましたが、
嵯峨天皇の勅命により諸堂を再興、
鎌倉時代に入ってまたまた荒廃してしまったこの寺を源頼朝が再び再建。
以来武士の帰依があつく、信奉されてきました。
仏木寺から車でおよそ10分。
四国八十八ヶ所霊場第四十一番、龍光寺に到着。
正確には「稲荷山護国院龍光寺(いなりざんごこくいんりゅうこうじ)」と言います。
仏木寺に比べると、ちょっと入り組んだところにあって分かりにくい。
また、入口の鳥居から本堂までが離れていて、これまた分かりにくい。
本堂は階段を少し登った、小高い丘の上にあります。
ここの特徴は、お稲荷さんがあることでしょうか。
神仏習合のお寺だったんですね。
宗教の垣根を超えられる、って素晴らしい。
世界は広い。
いろんな神様がいるんだもの。
四国八十八ヶ所霊場は宇和島市には二つ、西予市に一つあります。
今回はこの三つのお寺を訪ねてきました。
まずは第四十二番、仏木寺から。
平安時代初期、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。
老人に進められるまま牛の背に乗って歩いていると、
楠の大樹の梢に宝珠が引っかかっているのを見つけた。
よくよく見ると、その宝珠は大師が唐からの帰国の際に三鈷と一緒に放った宝珠であった。
この地こそ霊地であると感得した弘法大師は、楠の大日如来像を彫り、
堂宇を建てて本尊に安置した。
この由縁より仏木寺は家畜牛馬の守り神として崇められてきました。
境内には牛馬の陶磁器や扁額が数多く奉納された家畜堂があるそうですが、
訪れた時はこの由縁を知らず、見過ごしてしまいました。
ちなみに三鈷の方はさらに遠くの足摺岬まで飛んでゆきました。
やはり霊地として金剛福寺が開創されています。
生きものは生きていくために他の生きものを殺し、食らう。
どのような理由であれ、命を奪うことは罪であるから、
できることなら必要最低限に留めるべきである。
人間は狩りよりも安定して食料を確保するために
食料用の生きものを飼育する術を覚えた。
一見狩りよりも温和な行為のように思えるが、
そう思ってしまうのは屠殺の現場を見ないからである。
ただ食われるためだけの生きものを神ではない人間が創り出し、殺す。
食料の自給が安定化することで食料のありがたみを忘れる。
どんなに罪深い業であろうか。
そのことを自覚するために仏木寺のような家畜に感謝を捧げるお寺はあるのだろう。
聖地を巡礼し、自らの身体に苦行を強いることで人は人であることを贖罪する。