梼原に新しくできた図書館を見に行ってきました。
愛媛県との県境近くにある高知の山奥の町・梼原町には隈建築が6つもあります。
6,7年前の地域おこし協力隊時代に何度か訪れましたが、
その頃は隈建築は町役場、まちの駅、雲の上レストラン(ホテル)、雲の上ギャラリーの4つでしたが、
2018年に新しく図書館と福祉施設ができ、かねてより見に行きたいと思っていました。
とくに図書館は、太宰府天満宮参道のスターバックスや、サニーヒルズなどのように、
木材を斜めに組み合わせて配し、あたかも大きな樹の下で本を読んでいるような、
有機的な空間を実現しています。
瀬戸内国際芸術祭2019がはじまりました。
...といってもこの記事を書いてる時点で春会期が終わろうとしてますが^^;
昨年暮れに仕事を辞め、職業訓練に通いながら仕事を探している状況から、
今年は行くかどうか迷っていたのですが、
漠然とはいえ、一応人生の目標でもあるのでやはり行くことにして、
春会期がはじまる前に通年パスポートを購入。
会期前だと1,000円引きの3,800円で買えるし、複数スポット見るなら
これが一番安上がりだしね。
回を重ねるごとに規模が拡大し、今年は国内外からさらに多数の来場者が来ることが見込まれる上に、
今年は平日は職業訓練で休めないため週末にしか行くことができず。
さらに前回まではパスポート割引があった地中美術館や豊島美術館も今年はなし。
というわけで今回は混雑が予想されるメインの直島・豊島は避け、
今まで行ったことのないマイナースポットにターゲットを絞ることに。
まずは瀬戸大橋四国川の袂にある沙弥島会場へ。
かつては周囲を海に囲まれた島も1967年に埋め立てられて地続きに。
沙弥島会場は毎回春会期のみの開催で、これまで春会期に訪れたことがなく、
今回ようやく訪れることができました。
木造の学校に木霊が宿る。
そんな学校をつくらないとほんとうはいけないのではないか。
自然で、簡素で、静寂である、
このことが学校の環境としては一番いいんではないかと思っております。
建築というのは何気ない美しさですよね。
わざとらしくないのがいいというのと、
それと滲み出て、心に染みるような、
そういう建築であってほしい。
(『素描・松村正恒』パンフレットより)
愛媛に来て8年。
念願の建築にようやく訪れることができました。
八幡浜市立日土小学校(以下「日土小学校」と称す)。
この建築を明確に知ったのは2013年の香川県立ミュージアムでの丹下健三展でした。
丹下さんと同時代に活躍したの建築家たちの一人として紹介されていました。
日土小学校は今も現役で活躍する小学校ですが、
平成21年より春休みや夏休み等の長期休暇時に一般公開されており、
今回第32回の学校見学会に参加してきました。
現在に残る校舎は愛媛県大洲市出身の建築家・松村正恒氏の設計により
1956年に中校舎が、1958年に東校舎が建てられました。
2007年に八幡浜市の有形文化財に指定されると同時に改修改築工事に着手、
2009年に新しい西校舎が完成しました。
1999年にDOCOMOMO Japan20選に選ばれ、
さらに2012年に木造モダニズムをよく残すものとして、
国の重要文化財の指定を受けました。
夏休み三日目は福井県へ。
福井城跡そばのホテル、その名も「フクイキャッスル」を朝出発し、
勝山市にある福井県立恐竜博物館へ。
福井といえば恐竜。
特に熱心な恐竜ファンというわけではなく、
黒川紀章が設計したその空間を見たくて訪れたわけですが...
時期が悪かった。
8月13日、そう、お盆初日。
田舎だからそんな人来ないだろ...というのは甘かった。
こんな田舎にこんな巨大なジュラシックパークがあるなんて。
そこは黒川紀章建築の中でもピカイチの空間でした。
待ちに待った夏休み。
まず最初に向かったのは神戸市内にある兵庫県立美術館。
大震災からの復興プロジェクトとして計画され、安藤忠雄氏の設計で2002年に開館。
海沿いに建つ美術館の周囲には市立のなぎさ公園が整備され、
ひとつの巨大なランドスケープを形成しています。
愛媛からは松山自動車道、徳島自動車道を経て淡路島を横断して本土に入り、
垂水インターチェンジで阪神高速3号神戸線に入り、摩耶インターまで。
高速降りて5分ほどで美術館に到着。
盆休みということで渋滞を心配してましたが、
阪神高速に入るまではほぼ渋滞なし。
阪神高速は断続的にノロノロ運転でしたが、想像してたよりは流れていてよかった。
それにしてもまあデカイ。
デカすぎて全体を把握するのが難しい。
真夏の昼間ということもあって周囲を一周する気にもなれず、
さらには一部工事をしている箇所もあって、なおさら全体像の把握を難しくしてました。
基本的には細長い長方形ブロックが3つ平行に並んだ構造で、
そんなに複雑な構造ではないはずなのに、いざその内部へ足を踏み入れると、
複雑に入り組んだ空間に戸惑いを感じてしまった。
まあ、面白いといえば面白く、安藤さんも意図的にそういう空間づくりをしたのかな、と。
訪問日:2018年4月17日(火)
おおよそ2ヶ月前の話。
出張で久々に上京しました。
最終日は移動のみで飛行機の時間が夕方だったので、
その待ち時間を利用して、久々のアート巡り。
...といっても2スポットのみだけど。
まずは東京ステーションギャラリーで開催中だった建築家・隈研吾の展示。
9年前に開催されたTOTOギャラリー「間」での展示以来二度目。
9年前でもすでにかなり有名だったとは思うのだけれど、
個展の範疇を超えない小規模だったのに対し、
今回は一流のアーティストとして見応えあるボリュームで楽しむことができました。
草間彌生『ハーイ、コンニチワ!ヤヨイちゃん』『ハーイ、コンニチワ!ポチ』(2004)
広島県尾道市の千光寺公園の中にある尾道市立美術館へ行ってきました。
国内の現代アートコレクターを代表する高橋龍太郎氏、田口弘氏、桶田夫妻の
膨大なコレクションから第一線で活躍する現代アーティストの作品約40点を展示する
企画展が開催中でしたが、自分のもっぱらの関心は、
安藤忠雄設計によりリニューアルされた美術館そのものでした。
開館当初の美術館の様子を知らないので、新旧の変化を探ることはできないのですが、
古い伝統的な寺社建築の前に安藤さん独特のコンクリートボックスが配置されるという
割りと分かりやすい構造なので安藤さんの行った改修ポイントがそれなりに見えた気がします。
外見的には比較的新旧の建物の区別がはっきりしているのですが、
内部はシームレスにつながっており、単に古い建物の前に新しい建物を加えただけでなく、
一つの美術空間としてトータル的に見直されたことが分かります。
10年前に買った「CasaBRUTUS特別編集 安藤忠雄×旅 総集編」を久しぶりに読み返していると、
愛媛にも安藤建築が、それも安藤さんにはめずらしい木造建築がある、
ということに改めて気づきました。
買った当初は東京に住んでていて、
遠い愛媛にある建物のことにはあまり興味が向かなかったんでしょうね。
...というわけで西条市の光明寺に行ってきました。
開基は戦国時代の1520年頃、現在の住職は22代目。
2000年に安藤忠雄設計で全伽藍(本堂、客殿、礼拝堂、庫裡)を新築。
戦国時代開基の古刹を現代建築界の巨匠が大胆に刷新する。
長年積み重ねてきた伝統的な寺社建築の枠を打ち破る。
いろんな面で批判は決して少なくなかったことでしょう。
しかし考えてみれば、伝統的な寺社建築も最初は革新からはじまったはず。
革新なきところに前進はなく、廃れゆくのみ。
実際、過疎化が進む地方においては檀家が減り、
寺社を維持していくのが難しくなっていると聞きます。
三方を格子に囲まれた本堂の中は格段に明るい。
従来の薄暗い本堂からすれば違和感はあるものの、
木材という昔から馴染みのある素材に囲まれているせいか、心地よさを感じました。
この建物はお寺にとっても、コンクリート造を得意とする安藤さんにとっても、
革新的な挑戦だったのでしょうね。
今治城に行ってきました。
今治城は藤堂高虎が関ヶ原の戦いの戦功に伊予半国20万石を拝領し、
1602年に築城を開始、1604年〜1608年に完成させました。
枡形虎口による鉄御門の強固な守り、
堀を二重三重に巡らせて、瀬戸内海の海水を引き入れて、
船が城郭まで入れるようになっていた日本屈指の海城でした。
Wikipediaによれば、築城当時に天守が建造されたかどうかの一次資料がなく、
その存在については諸説あるそうで、
現在の天守は1980年に多門櫓、武具櫓とともに再建された史実に基づかない模擬天守です。
その後1985年に御金櫓、1990年に山里櫓、そして2007年に鉄御門が再建されました。
現在は二の堀、三の堀は埋め立てられ、本丸と二の丸・三の丸を囲む堀のみですが、それでもこの壮観さ。
往時はさぞかし圧倒的だったことでしょう。
返す返すも廃城令という残念な施策が悔やまれます。
[初代城主・加藤嘉明]
2011年にはじめて愛媛に来たときに松山城に登った。
そのときは時間の都合上、三の丸や二の丸をすっ飛ばして、本丸まで登ったものの、
天守閣の中には入らず引き返した。
それから6年。
ようやく松山城への核心へと迫る。
松山城はお堀に囲まれた平地部の三の丸、
勝山山麓にあって政務や藩主家族の居住場所であった二の丸、
標高132メートルの勝山山頂部に建てられた本丸が、
南西から北東へと斜めに連なる平山城です。
築城は1602年に加藤嘉明により取りかかるが、
完成前に会津藩へ転封となり、二代目城主となった蒲生忠知により
二の丸・三の丸を含む平山城・松山城を完成させたものの、
子供がいなかったため蒲生家は断絶、松平定行が三代目藩主となり、
以後明治維新までの235年間松平家が城主を務めた。
天守は1784年の落雷で一度焼失し、ペリーの黒船来航の翌年(1854年)に再建されました。
それが現在の天守。
現在日本には12の現存天守が残っていますが、
松山城はその中で唯一、親藩である証の「葵の御紋」が付されたお城なのです。
そして現存天守の中でもっとも新しいものでもある。