木造の学校に木霊が宿る。
そんな学校をつくらないとほんとうはいけないのではないか。自然で、簡素で、静寂である、
このことが学校の環境としては一番いいんではないかと思っております。建築というのは何気ない美しさですよね。
(『素描・松村正恒』パンフレットより)
わざとらしくないのがいいというのと、
それと滲み出て、心に染みるような、
そういう建築であってほしい。
愛媛に来て8年。
念願の建築にようやく訪れることができました。
八幡浜市立日土小学校(以下「日土小学校」と称す)。
この建築を明確に知ったのは2013年の香川県立ミュージアムでの丹下健三展でした。
丹下さんと同時代に活躍したの建築家たちの一人として紹介されていました。
日土小学校は今も現役で活躍する小学校ですが、
平成21年より春休みや夏休み等の長期休暇時に一般公開されており、
今回第32回の学校見学会に参加してきました。
現在に残る校舎は愛媛県大洲市出身の建築家・松村正恒氏の設計により
1956年に中校舎が、1958年に東校舎が建てられました。
2007年に八幡浜市の有形文化財に指定されると同時に改修改築工事に着手、
2009年に新しい西校舎が完成しました。
1999年にDOCOMOMO Japan20選に選ばれ、
さらに2012年に木造モダニズムをよく残すものとして、
国の重要文化財の指定を受けました。
日土小学校を設計したのは松村正恒という建築家だ。1913年、愛媛県大洲市に生まれ、武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)を卒業した後、土浦亀城建築設計事務所や農地開発営団に勤務した。戦後は故郷に戻り、1947年から60年まで八幡浜市役所の職員として、日土小学校をはじめとする多くの優れた学校や病院関連施設などを設計した。学生時代には、欧米のモダニズム建築や新しい建築計画の理論を学ぶ一方、社会的弱者を救済する運動にも参加し、それらの知識や経験が彼の設計思想の基礎となった。戦後の新しい社会像を空間化したような作品群は注目を集め、1960年には『文藝春秋』誌によって日本の建築家10人のひとりに選ばれた。市役所を辞めた後は松山市で設計事務所を主宰して多くの建物を設計する一方、軽妙洒脱な語り口と正義感の強い人柄で多くの人々を魅了した。最後まで現役を貫き1993年に亡くなった。享年81歳であった。(花田佳明/神戸芸術工科大学教授、パンフレットより)
八幡浜市の中心街より車を走らせること15分。
閑静な山の中、川を背に日土小学校は建っていました。
外観。
模型。
[中校舎]
[東校舎]
東校舎
玄関。
1階ー理科室。
階段。
2階廊下。
廊下と教室が分離されているクラスター配置により両側採光で明るい内部。
さらに廊下と教室には段差がついています。
2階ー相談室。
台形の机黄金の市松模様がオシャレ。
2階ー音楽室。
2階ー図書館。
図書館の先にあるベランダ。
外階段。
中校舎への渡り廊下。
続いて中校舎。
玄関。
1階ー通路。
1階ー交流ラウンジ。
階段。
2階通路。
同じ校舎内でも低屋根と高屋根で表情が変わるのが面白い。
2階ー4年生教室。
教室も3年生と4年生とでは若干表情が異なります。(3年生教室は写真撮り忘れました;;)
西校舎への通路は両階ともラウンジになっています。
[1階ーひだまりラウンジ]
外階段。
思わず川に飛び込みたくなりますが、
よく見ると手すりが高くしてあります。
これだけ川が間近にありながら、川に入らせないようにしてあるところが今どきだなあ。
最後に新設の西校舎。
階段。
オープンタイプの教室。
[6年生教室]
手洗い所もオシャレ。
モダニズムといえば、たいていは当時新しい素材として台頭してきた
コンクリート造がその主流でしたが、
日土小学校では切妻屋根の木造という従来の伝統風土を大事にしつつ、
廊下と教室が切り離されたクラスター型配置や、
木造+鉄骨トラス・鉄骨ブレースのハイブリッド構造、
ガラス窓を多用し採光部の多い明るい内部など、
見た目の地味さに反してなかなか面白い、ワクワク感が止まらない空間でした。
当時の様子を残しつつ、新しい時代に対応した使われ方をしていく、
まさに理想的な建築だと感じました。
訪問日:平成31年3月31日AM
アクセス: JR八幡浜駅より車で15分