
久々の東京出張。
帰りの飛行機までの時間を利用して、久々のお江戸での美術鑑賞。
東京都美術館でのムンク展に続いて、
三菱一号館美術館で開催中のフィリップス・コレクション展へ。
フィリップス・コレクションは裕福な実業家の家に生まれた
ダンカン・フィリップスが蒐集した美術作品群です。
1918年に法人化し、1921年にこれらのコレクションを展示する場として、
ワシントンDCにフィリップス・メモリアル・アート・ギャラリーを開館しました。
これはMoMAの開館よりも8年も早く、アメリカで最初に開館した近代美術館とされています。
ダンカン・フィリップスは1966年に亡くなりましたが、
その精神はフィリップス・コレクションに受け継がれ、
現在、同コレクション所蔵品数は4,000点以上にもなります。
本展はこの世界有数の近代美術コレクションの中から、
アングル、コロー、ドラクロワ等19世紀の巨匠から、
クールベ、近代絵画の父マネ、印象派のドガ、モネ、印象派以降の絵画を牽引した
セザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点を展覧するものです。

久々の東京出張。
帰りの飛行機までの時間を利用して、久々のお江戸での美術鑑賞。
...というわけで東京都美術館で開催中のムンク展に行ってきました。
特にムンクが好き、というわけでもなくて、
上ので開催中のフェルメール展、ルーベンス展、六本木で開催中のボナール展など、
場所の成約と好みをいろいろ検討した結果、消去法で残ったのがムンク展と、
三菱一号館美術館のフィリップス・コレクション展でした。
結果的にはこれが大当たり。
「叫び」は世界で最も有名な絵画の一つであり、
故国ノルウェーでは国民的画家として讃えられているエドヴァルド・ムンク。
40代にはすでにその画業は社会的に認められるようになっており、
画家としては成功した部類に入るでしょう。
しかしなぜ、彼の絵はこんなにも悲しみに満ちているのでしょうか。
ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)の北に位置するローテン村で、
軍医だった父クリスチャン・ムンクと母ラウラの間に生まれたムンクは、
結核により母と姉を幼くして失う。
女運も悪く、恋人とのいざこざの末に左手の指の一部を失ってしまう。
幼少時に大切な家族を失うという経験と、恋人との破局により
アルコールに依存するようになり、ついには精神的にも異常をきたすようになる。
この危機を画業の成功でなんとか乗り切るが、
ナチス・ドイツが台頭してくると、頽廃芸術として作品押収され、
戦争を避けるようにひっそりと作品を描き続けるが、
ナチスの爆撃で家の窓が吹き飛ばされ、その寒さにより気管支炎を患い、
生涯独身を貫いた画家は自宅で一人息を引き取った...
画家としては成功したが、彼の人生は決して恵まれたものではなかった。
彼の人生ははたして幸福なものだったのだろうか。
彼自身、自分の人生に悔いは残らなかったのだろうか。

訪問日:2018年4月17日
おおよそ2ヶ月前の話。
東京ステーションギャラリーでの隈研吾展をあとにして、
三菱一号館美術館で開催中のルドン展へ。
ルドンの絵は過去2回のオルセー展(1回目/2回目)などで、
何度か目にする機会がありましたが、単独での大々的な展覧会は今回がはじめて。
時代的には印象派の時代に生きた画家であり、第8回の印象派展にも出品しているものの、
印象派とは一線を画し、独自の路線を歩んだ。
風景画の巨匠に教えを受けるも、
彼が描く絵は風景と人間の内面とが混ざりあった独特の世界だった。
周囲に流されず、自分のアイデンティティを築き上げたという点で
どこか自分の心を刺激する画家の一人。

訪問日:2018年4月17日(火)
おおよそ2ヶ月前の話。
出張で久々に上京しました。
最終日は移動のみで飛行機の時間が夕方だったので、
その待ち時間を利用して、久々のアート巡り。
...といっても2スポットのみだけど。
まずは東京ステーションギャラリーで開催中だった建築家・隈研吾の展示。
9年前に開催されたTOTOギャラリー「間」での展示以来二度目。
9年前でもすでにかなり有名だったとは思うのだけれど、
個展の範疇を超えない小規模だったのに対し、
今回は一流のアーティストとして見応えあるボリュームで楽しむことができました。


半年ぶりの東京2日目。
六本木の国立新美術館で安藤忠雄展を見た後、
日本橋の三井記念美術館で開催中の超絶技巧展を見に行こうと地下鉄での移動中、
人身事故かなんだかで、電車がまさかのストップ。
当面動きそうもなく、このままだと飛行機の時間に間に合わなくなる。
そこでプランB。
上京前に日曜美術館を見て少し気になっていたものの、
時間の都合上あきらめていた菊池寛実記念智美術館へ行くことに。
折しも電車が止まったのが最寄り駅の神谷町。
これはもうこちらの美術館に行きなさい、という神のお導き。
神谷町駅からゆるやかな坂道を上がった先のホテルオークラの向かいに建つ一風変わった建物。
西久保ビルというそうですが、中世に西久保城というお城があったことに由来するそうです。
美術館はこの建物の地下にあるわけですが、
地上に奇抜なビル、地下に美術館というスタイルは山種美術館に似てますね。
しかしこの美術館はスバラシイ。
近年まれに見る大当たりの美術館でした。

[図録]
半年ぶりの東京。
竹橋の国立近代美術館に続いて東京駅構内にある東京ステーションギャラリーへ。
正直企画展よりは、新しくできた美術館そのものが目的でした。
東京駅の復元工事に伴って新しくできた美術館かと思いきや、
開館は1988年、なんと自分が上京する前からあったんですね。
東京駅は毎日通勤で通過していたのに全く知りませんでした。
近くにあるものを意外と知らない。
ものごとってえてしてこんなものですよね。
というわけでシャガールが格別好きだから、というわけではなかったのですが、
美術館の空間はもちろん、展示そのものも期待以上にすごく良かった。
画家として有名なシャガールですが、
重力という常識から開放されたようなその作風からして、
二次元の枠におさまらない雰囲気は十二分にありましたが、
実際こんなにもたくさんの三次元作品を手がけていたことに驚きでした。

[上野・国立西洋美術館]
2016年7月17日、トルコで開催されていたユネスコの世界遺産委員会で、
日本の国立西洋美術館を含む7カ国17資産で構成されるル・コルビュジエの建築作品が、
世界文化遺産に登録されることが正式に決定しました。
実際は前日の16日に審議されるはずだったのですが、
トルコで突如として起こったクーデター未遂事件で中止、
翌17日に再開され、決定に至りました。
2009年と2011年の過去2回の審議で登録が見送られ、
今回三度目の正直でようやくの登録。
長い道のりだったんだなあ。
東京23区で初、大陸間をまたいだ遺産としても初の登録。
そして国内20件目の世界遺産登録となります。



基本的に無宗教です。
...今は。
生まれ育った家は典型的な浄土真宗で、生活の節々にその影響はあったけれど、
自分の中の核に響くことはなかったように思います。
上京してからはなおさら宗教のことなど意識することもなくなった。
時を経て、社会人学生として美大でデザインを学び、建築に興味をもつようになってから、
宗教について、だんだんと興味をもつようになった。
仏教やキリスト教などの歴史的宗教建築を見るのが好きになった。
今回の上京時、滞在したホテルの隣に立派な教会がありました。
高輪にこんなユニークな教会があったなんて。
20年近く過ごしていても、見えなかったものがまだまだたくさんある。
だからまだまだ「魅力」を探し続けなければ。
魅力を知らずして、魅力を作り出すことはできないのだから。


原美術館は大好きな美術館のひとつです。
元々は実業家・原邦造の邸宅として、渡辺仁の設計で1938年に建てられた洋館を、
1979年に美術館に転用されたものです。
いわゆる個性的な建築、というわけではないけれど、
全体として心地よい空間となっている気がします。
どちらかといえば「これでもかっ!」と主張する建築が好きですが、
こういう建築も悪くない。

「僕たちにとって、自分は一番驚くべき存在なのさ」と彼は言った。「砂粒ほどの信仰があれば、僕たちは山を動かすこともできるのだ...(中略)...この力を認め、信じなさい。そうすれば、その力は自ずと現れる」「そんな風にうまくはいかないわ」「僕の言ってることがわかってないんだね」「わかっているわ。でも私は他の人と同じなの。怖いの。あなたや私のとなりの人にはうまゆくかもしれないけど、私には絶対うまくゆかないわ」「いつか変わるさ。本当はあそこにいる幼子と僕たちはまったく同じなのだとわかり始めた時にね」(パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』)
ただいま引越し作業最後の追い込み中。
明日にはネット接続も解除して梱包しちゃいます。
つまり、これが東京での最後の記事。
あと数日で、19年暮らしたこの町ともおさらば。
この週末で友人知人が送別会、壮行会を催してくれ、
自分がいよいよ新しい一歩を踏み出そうとしていることを強く自覚させてくれた。
正直ちょっと興奮している。
希望と不安が入り混じって。
この町で僕の前に現れては消えていった、あまりにも多くのことを思って。
生まれてから最初の二十年、僕は自分を守るために自分の殻の中に閉じこもった。
たぶんものごころがつく前のことだったのだろう。
何から自分を守るためにそうしたのか、記憶にない。
僕の青春は無為だった。
二十歳で学校を卒業して、就職で上京した。
とにかく早く里親の元から離れて自立したかった。
しかし僕が本当に自立しようとしたのは、それからおよそ14年後のことだった。
幼い頃の劇的な外部の変化が、僕に外部へ対する強い警戒心を持たせた。
内部を外部からシャットアウトすることで自分を護った。
ケモノとして生きていくのなら、それは理想的な生き方かもしれない。
しかし人間はそんな生き方では決して幸せになることはできない。
幸せは待ってれば向こうからやってくるものじゃない。
自分で考え、探し、獲得するものだ。
その行為そのものが「幸せ」なのだから。
「大切なもの」は目に見えない。
大切なものと大切なものを繋ぐために、
大切なものを共有するために、
人間は目に見える、触れることのできる「モノ」を創る。