「庭園」と一致するもの

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念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。

中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号


開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。

その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。


かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。

まずは本堂までの参道部分をレポートします。


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四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。


下段部上段部に続いて、庭園・本坊・宝物館エリアを紹介していきます。

石手寺の庭園はいわゆる美観や莊嚴さをアピールしたものではありません。
やはりカオス感を全面に押し出した不思議な雰囲気を醸し出したものとなっています。

仁王門の右側の三重塔や鐘楼の奥に七転八福神を祀った庭園があります。
さらにその奥に寺宝を常時展示している宝物館や、
ブッダの一生を表現した彫刻を置いた庭がある本坊があります。


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四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。

現在の境内はさほど広いわけではないのだけど、
盛りだくさんすぎるので3つのパートに分けます。

本記事では、下段部から上がってきて上段部をご紹介。


本堂の裏側には洞窟があり、その奥にはさらに奥の院があります。
ただ、本堂に来るまでにもうたくさんありすぎてついつい見過ごしがち。
(自分は最初見過ごしてしまいました^^;)

しかし、この本堂の奥にこそ石手寺ワールドの醍醐味が潜んでいるのです。


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丸亀にガラスのヒマワリを見に行ったついでに。

石垣の名城・丸亀城に行ってきました。
標高66メートルの亀山に築かれた平山城で別名・亀山城。
創建は豊臣政権下に生駒親正による。
現在の城郭は親正・一正親子二代により1602年に完成された。
現在に残る石垣は山崎氏、天守は1660年に丸亀藩主となった京極高知により完成された。
つまり丸亀城は生駒・山崎・京極の三家にわたって築城されていったもの。

天守は日本に12しかない現存天守であり、
四国内では最も古く、日本一小さな現存木造天守です。
...とパンフには書いてあるのだけど、
Wikipediaでは弘前城天守が14.4メートル(丸亀城天守は14.5メートル)で最も小さい、
とありました。...現存天守はすべて木造だよね?どちらが正しいんだろ。

一方、立派な石垣は4重に重ねられたその高さは60メートルにもなり、日本一の高さを誇ります。
(単体では大阪城の30メートルが日本一の高さ)


日本一高い石垣に日本一小さい天守。
なかなかインパクトのある組み合わせではないですか。

さらにこの城にはもう一つの日本一があるのです。


春の天赦園【愛媛県宇和島市】

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宇和島市の天赦園。
宇和島藩の七代藩主・伊達宗紀(むねただ、号:春山[しゅんげん])が1866年につくった隠居所です。
池泉回遊式庭園であり、昭和43年に「名勝」の国指定を受けました。
「天赦園」という名前は伊達政宗公が隠居に際し群臣たちに示した述懐の漢詩に由来します。


先月の初訪から1ヶ月。

天赦園のオフィシャルブログを見ていたら、
一番の見所の白玉上り玉藤が23日ごろにピークを迎える、というので
夜勤明けの日曜日、眠い目をこすりながら一路宇和島へ。
日曜日で天気も快晴、ということもあって前回よりたくさんの人でにぎわってました。

たった1ヶ月で園内は色とりどりの花が咲いていて、劇的に雰囲気が艶やかになっていました。


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「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」(孟子)

東京でミュシャ展並河靖之展の二つの展示をはしごした後、急ぎ水戸へ移動、
駅周辺のホテルに宿泊した翌朝。

水戸で二つの展示をはしごする前に、偕楽園に行ってきました。
1月にNHKで放送された「ブラタモリ」をみて、行きたいなあと思っていたところに、
急遽決まった上京計画。
これはもう、行くっきゃない、と。

水戸の偕楽園は金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つで、
天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主、徳川斉昭公が、
「領民と偕(とも)に楽しむ」場にしたいと願い創設しました。

斉昭公は陰陽の調和の大切さに重きを置き、
陰陽の調和を図ることを「一張一弛」(弓を張ったり、弛めたりすること)を例にして示し、
勤労と休息の適切さが治世の要点であることを強調しています。
学びの場である弘道館に対する休息の場として偕楽園は創設されました。


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アール・ヌーヴォーの展示に続いてアール・デコの館へ。

3年ぶりの東京。
ミュシャ展終了後、同じく国立新美術館で開催中の草間彌生展を
限られた時間の中で少しでも多く懐かしい場所を回りたい、ということで
断腸の思いであきらめて、目黒の東京都庭園美術館へ。
並河靖之の超絶技巧の七宝の数々を見てきました。

自分は格別焼き物に詳しいわけではないし、
並河靖之という七宝家もこの度はじめて知りました。

それでもこの展示を見る気になったのは、
やっぱり東京都庭園美術館という懐かしい場所を訪れたかったから。
在京時代は、お気に入りの空間としてよく訪れました。
愛媛に移住後に新館ができたと聞き、また行きたいなあと思いつつ月日は流れ、
今回の展示が終わった直後から11月までのおよそ半年間、
本館のバリアフリー対応工事でまた全面休館するとのことで、
ミュシャ展と合わせて見ておきたいなあ、と。


「庭園美術館」というくらいなので、庭園が売りの空間なのですが、
一番のおすすめは旧朝香宮邸として建てられた本館。
現在は美術館となっていますが、当時のアール・デコ様式を色濃く残しており、
建物自体が大きな美術作品となっています。


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たどり着いたのは、故郷への想い。


三年ぶりの東京。
まずは国立新美術館で開催中のミュシャ展に行ってきました。
今回の目玉はなんといっても全20作の超大作「スラヴ叙事詩」。

アール・ヌーヴォーを代表するチェコのデザイナー、アルフォンス・ミュシャ。
派手で華やかな女性のポスターで有名なミュシャですが、
デザイナーとしての成功の末にたどり着いたのは、
故郷への想いを画家として表現することだった。

その想いの結晶が晩年の16年という月日を費やして制作された「スラヴ叙事詩」。
スラヴ民族にまつわる歴史、寓話や神話を題材とした全20作の絵画。
大きいもので一辺が縦6メートル、横8メートルにも及ぶ巨大絵画の数々は、
華美なデザインとは程遠く、静謐だが言いようのない迫力を感じさせるものだった。

ミュシャは当時諸外国からの圧政に苦しめられていた故国の状況を憂い、
スラヴ民族の愛国心を鼓舞するために「スラヴ叙事詩」を描き上げましたが、
皮肉も制作中に故国はチェコスロバキアとして独立して自由を手にし、
ピカソなど抽象的な現代アートが台頭してきたこともあって、
完成時にはすでに時代遅れと評されるようになっていた。

ミュシャの存命中に「スラヴ叙事詩」全作品が公開されたのは、
チェコスロバキア独立10周年の1928年の1回のみ(正確には一点を除く全19作品)。
その後1939年にナチスの台頭によりチェコスロバキアは解体、
ゲシュタポに逮捕されたミュシャは厳しく尋問されたことが原因で体調を崩し、他界。

「スラヴ叙事詩」はプラハ市に寄贈される際に専用の展示場を建設する約束だったが
その約束が果たされることはなく、故郷の城中で夏の間ひっそりと展示されるのみで、
長い間世間から忘れ去られた。

2012年にプラハで再び全作品が公開され、
そして今回はじめて全20作品が国外展示されるわけですが、
長い間忘れ去られていたこの作品がなぜ今、公開されるに至ったのか、
その辺の事情は会場や図録からはうかがい知ることができませんでしたが、
いずれにせよ、日本で「スラヴ叙事詩」が見れるのは極めて稀有なことであり、
この機会を逃せば日本でこの作品を見ることはもうできないかもしれない。
そのような想いからどうしても見ておきたかった。


残軀は天の赦す所・天赦園【愛媛県宇和島市】

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馬上に少年過ぎ

世は平にして白髪多し

残軀は天の赦す所

楽しまずんば是を如何せん

(伊達政宗)

馬に乗って戦場を駆けた若かりし頃は過ぎ、
太平の世となり、自分の髪の毛もすっかり白くなってしまった。
戦禍を生き延びることができたのも、天が自分を赦してくれたからであろう。
ならば余生を楽しまなくてどうするか。


宇和島城に続いて愛媛県宇和島市の天赦園に行ってきました。
宇和島藩の七代藩主・伊達宗紀(むねただ、号:春山[しゅんげん])が1866年につくった隠居所です。
池泉回遊式庭園であり、昭和43年に「名勝」の国指定を受けました。
「天赦園」という名前は伊達政宗公が隠居に際し群臣たちに示した述懐の漢詩に由来します。

宇和島へは2014年に一年間、職業訓練校にほぼ毎日通いました。
天赦園のそばも何度も通ったけれど、結局中へ入ることは一度もなかった。
近くにあっても意識できないものってたくさんあるんだな。


日本一大きな井戸だって。 井戸というよりもはや貯水池。 #ウォーキング #松山 #お城

Tadao Higakiさん(@tadaoh73)が投稿した写真 -


2011年にはじめて愛媛に来たときに松山城に登った
そのときは時間の都合上、三の丸や二の丸をすっ飛ばして、本丸まで登ったものの、
天守閣の中には入らず引き返した。

それから6年。
ようやく松山城への核心へと迫る。

松山城はお堀に囲まれた平地部の三の丸、
勝山山麓にあって政務や藩主家族の居住場所であった二の丸、
標高132メートルの勝山山頂部に建てられた本丸が、
南西から北東へと斜めに連なる平山城です。

築城は1602年に加藤嘉明により取りかかるが、
完成前に会津藩へ転封となり、二代目城主となった蒲生忠知により
二の丸・三の丸を含む平山城・松山城を完成させたものの、
子供がいなかったため蒲生家は断絶、松平定行が三代目藩主となり、
以後明治維新までの235年間松平家が城主を務めた。

二の丸の建物は明治維新後は一時期県庁として使われていたものの、
明治5年(1872年)に火災により焼失、270年の歴史に幕を閉じた。
その後は跡地に病院や学校が建てられていた時期もありましたが、
1992年、現在の二之丸史跡庭園が整備・開園し現在に至ります。