[ルーアン大聖堂(クロード・モネ、1893年)]
大塚国際美術館での展示作品。
会場内は撮影可能ということで、気の向くままにお気に入りの作品を撮影しました。
本記事では印象派をピックアップ。
一番好きなジャンルなのだが、大塚国際美術館で見ると一番がっかりするジャンルでもある。
それはそれまでの絵画が極力「タッチ(筆致)」を消すものであったのに対し、
印象派ではタッチを画家の個性、表現として重要視するから。
陶板画はいわば二次元プリントであり、筆致までをも再現することはできず、
平滑なキャンバスになってしまう。
それでは本当の印象派を理解することはできない。
...あくまで素人の自分なりの独自の解釈です。
知識不足、勘違い、根拠に欠ける部分も多々あることをご了承ください。
照明がやや暗めで暖色系のため、作品画像はピンぼけ気味でやや赤っぽくなっています。
また、陶板特有の光沢もあります。
さらに傾き補正やレンズ補正をかけているため、
必ずしも作品(本物)の内容や構成を忠実・正確に表すものではないことをあらかじめご了承ください。
「だいたいこんな感じのもの」という感じで見ていただけたらと思います。
友達に誘われて、「3331 Arts Chiyoda」という
学校を改装したギャラリーに講演を聞きに行ってきました。
京都精華大学の卒業制作展示の一環で行われる連続講演、
「デザイン教育の現場から」の初日に行われたもの。
テーマは「建築という枠組み」、
講師は同大学で教鞭をふるう二人の建築家、永山祐子氏+片木孝治氏。
永山祐子さんは今をときめく新進気鋭の若手建築家、
一方、片木孝治さんは建築設計の次のステップとして、
農山村地域をアートで活性化するプロジェクトをメインに活動されています。
これも一種の「都市計画」なのだろうか。
建築と社会。
今、まさに僕が必死に考えている方向性につながるタイムリーな講演会。
でも、「若手」を簡単に信用せず、ソフト優先指向を嫌う自分の性格では、
たぶん一人で行くことは決してなかっただろう。
誘ってくれた友達に感謝。
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ウィリアム・サマーセット・モームの「月と六ペンス」。
例によって中村先生の紹介。
ゴーギャンをモデルにした小説、ということで読んでみました。
ロンドンの株式仲買人であったストリックランドは、
四十歳にしてある日突然、仕事と家族を捨ててパリに逃げた。
画家になるために。
正式な美術教育を受けたわけでもない男が、
いきなり自分の絵だけで生活していけるはずもなく、
極貧生活を余儀なくされるが、そんな苦境をものともせず、
ひたすら絵筆を動かし続ける。
何かを求め、見つけ出そうとするかのごとく。
他人からの干渉を拒み、ひたすら孤高の道を進んだ男は、
最後に行き着いたタヒチで地上の楽園を見つけ出す...
ストリックランドの人生は、
まさにゴーギャンの人生そのもののように思えるけど、
実際のゴーギャンはここまで完全無欠ではなかったように思える。
これはゴーギャンが願った理想の人生ではないだろうか。
男はなぜ平和な家庭と仕事、すべてを捨てて、貧困と孤独の道を選んだのか?
小説「聖書」新約篇。
旧約篇が主とその代々の民との長い契約の物語であるのに対し、
新約編は救世主(メシア)イエスを中心とした奇跡の物語。
正直、これまでは旧約と新約との関係がよく分からないでいた。
せいぜい旧約がキリスト誕生前、新約が誕生後、
という程度の認識しかなかった。
小説「聖書」の旧約篇、新約編を通して読むことで、
やっとその関連が分かった気がする。
それらは旧い契約、新しい契約なのだと。
旧い契約だけでは十分ではなかったから、
主は新しい契約を民と結ぶべく、神の子を地上に使わせたのだ、と。
法は守ることが第一目的ではない。
法を守ることで得られる秩序、幸福こそが第一目的である。
世は常に変化する。
だから法もそれに合わせて柔軟に変更できるものでなければならない。
しかし、本質を見失ってはならない。
愛ゆえに法がある。
法ゆえに愛があるのではない。
[光輪のある自画像(1889年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
西洋美術史Ⅱの授業も佳境。
ゴッホとくれば、当然次はゴーギャン。
精神が壊れてしまうほどの凄まじい情念で描いたゴッホが断然好きだけど、
スライドで作品を眺めていると、やっぱりゴーギャンも悪くない。
1847年6月7日パリ生まれ。
この年、二月革命が勃発、ジャーナリストだった父クロヴィスは、
革命後の弾圧を恐れて、母アリーヌの親戚を頼ってペルーへ亡命、
幼少期を南米で過ごす。
7歳の時フランスに戻り、6年間神学校で学んだ後、
17歳で船乗りになる。
23歳でベルタンの株式仲買人として働くようになり、
この頃から日曜画家として絵を描きはじめる。
25歳でメットと結婚、5人の子供に恵まれる。
26歳でピサロと出会い、印象派と出会う。
28歳にはサロンに入選。
画業に専心するために株式仲買人を辞める36歳の頃には
夫婦の間には完全な亀裂が生じており、
やがて家族とは離ればなれになる。
物質文明に嫌気がさし、
文明の及ばないブルターニュ地方の田舎町ポンタヴァンで絵を描くようになる。
しかし、小さな田舎町にも文明の波が及ぶようになると、
彼の地でも満足できなくなり、新たな楽園を求めて南国タヒチを訪れる。
2回のタヒチ滞在を経て、やがて彼の遺書と呼ばれる大作、
「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」
を描き上げる。
ゴーギャンの「狡さ」に人間らしさを感じる。
自分のエゴの追求のためには家族を捨てることすら厭わない身勝手さ。
そんな自分の身勝手さを痛いほど自覚しており、苦しむ。
そしてそんな自分の狡さを浄化するために絵を描く。
僕にはそんな風に見える。
そして、彼のそんな絵が好きだ。
親近感を感じる。
...僕の中にも「狡さ」があるから。
[灰色の帽子の自画像(1887年)](出典:Wikipedia)
国立新美術館で開催中のゴッホ展に行ってきました。
卒業制作の最後の追い込み前の景気づけに。
ちょうど西洋美術史の授業でも取り上げられたこともあり。
中村先生の授業の中でも、取り上げられることの多かった画家の一人。
画家として活動したのはたった10年。
27歳という遅いスタートながら独学で、彼独自の画風を確立するも、
生きている間に売れた絵はたったの1枚。
2ヶ月間の共同生活の末の悲劇とともにゴーギャンと並んで
情熱の画家、炎の画家と並び称された天才画家。
...ゴッホの一般的なイメージはこんな感じだろうけど。
彼は決して天才肌ではなかった。
初期の地道な努力の積み重ねが晩年に一気に花開いた。
限りない孤独が彼の感性を極限まで高めてゆき、晩年に一気に爆発した。
そしてそのまま彼は散っていった。
今回の展示は晩年の傑作は少なく、正直もの足らない部分もあった。
正直ゴッホの初期の作品は凡庸でぱっとしないものが多い。
だけど、晩年の見事な作品群に結実するものがここにはある。
晩年が黄色を基調とした鮮やかな色彩なのに比べて初期の作品は驚くほど暗い。
ミレーの影響にはじまり、新進気鋭の印象派、新印象派のテクニックを取り入れ、
浮世絵におけるジャポニズムで色彩に目覚めた。
古今東西の別なく貪欲にチャレンジし、自分のものにしようとした。
ドガがデッサンなら、ゴッホは色彩。
印象派の控えめなタッチから自ら主張するタッチへ。
絵画を目に見える世界から目に見えない世界へと導いた。
それでも彼が生きた時代は彼を認めなかった。
時代が彼に追いつかなかった。
天才の悲しい宿命を背負ったまま、彼は孤独のうちに死んだ。
仲間を持つことは大切だ。
しかし自分の世界を持つことはもっと大切だ。
自分の世界を知らずして生きることほど、人として不幸なことはない。
...ゴッホはそれを教えてくれる。
[エトワール(1876-77)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
西洋美術史の印象派の授業でドガを学びました。
モネやルノワールなど代表的な印象派画家はそこそこに、
印象派の中でも異色な存在であるこの画家について、
およそ二週にわたってじっくり解説。
折しもドガ展が横浜美術館で開催中。
日曜美術館でもピックアップされたこともあって、
居ても立ってもいられず、行ってきました。
けっこうな混雑でしたが、ボリューム的にもちょうどよく、
常設展も含めて2時間でじっくり鑑賞できました。
本名イレール=ジュルマン=エドガー・ド・ガス。
貴族の出と見られるのが嫌で、「ド・ガス」を短縮した呼び方で
自らを名乗るようになる。
エコール・デ・ボザールで絵画・彫刻を学ぶ。
アングルからの「線を描きなさい、記憶からも、目に見えるものからも」
という助言により、念入りに構想された膨大なデッサンが生まれる。
目の病により明るい陽光の下で長時間絵を描くことができなかったため、
彼の作品は圧倒的に室内のものが多い。
印象派の多くの画家が光を求めて戸外へと出かけ、
そこにキャンパスを立て、いきなり絵の具を重ねていたのに対し、
彼が印象派の中でも異色の存在であったことが伺えます。
他の印象派画家のように筆触分割も使わなかった。
そんな彼がなぜ、8回のうちの7回も印象派展に出品したのか。
アカデミズムに学び、アングルの助言に忠実に従いながらも、
彼はアカデミズムの枠に収まる器ではなかった。
絵画を単なる「美の器」として捉えるのではなく、
あるがままを伝える、「真実の器」として捉えたかったのではないだろうか。
[ゴッホ『星降る夜』(1888年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
国立新美術館で開催されている、オルセー美術館展に行ってきました。
実は3年前に東京都美術館で開催されたオルセー美術館展にも行きました。
その時は美大に入る直前で、絵に関する知識も感覚も
今に比べるとまったくない状態だった。
今回はその時よりも10倍も絵画鑑賞を楽しめた気がする。
あらためて3年の月日の中で自分が学んだもの、を感じることができた。
別に絵を鑑賞するのに特別な知識なんて必要ない。
だけど、画家がどんな思いでその絵を描いたのか、
どういう時代背景でその絵を描いたのかを知れば、
よりその絵に対する思い入れが強くなる。
そして絵画で何を表現しようとしたのか、自分なりに考えることができるようになる。
感じて、考える。
「より良く」生きるために。
ただ、ボリュームとしては前回の方が大きかったかな。
けっこう混雑した中でもじっくり鑑賞したつもりだったけど、
鑑賞時間はトータルで2時間かからなかった。
いい絵はデジタルデータでもその良さが伝わるものだけど、
いい絵の本物はもっと良い。
絵は基本的に二次元の媒体だけど、
「本物の絵」は微かに三次元であり、その微かな部分に魅力が詰まっている。
[灰色の帽子の自画像(1887年)](出典:Wikipedia)
「文学と芸術」の授業でゴッホを学びました。
これまで中村先生の他の授業でもゴッホは度々登場してきたけれど、
これほどまとめて紹介されたのは今回がはじめてかも。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ、1853年生まれ。
最初は伯父の美術商の元で働くが、失恋を機に職を失い、
今度は牧師を目指すも狂信的な熱意が逆に人々に不気味がられ、この職も失う。
その後の1879年に画家を志し、1880年に37歳の若さで亡くなるまでの
およそ11年間で数々の名作が生まれた。
しかしゴッホが存命中に売れた絵画はわずかに一点。
その一点も弟のテオが購入したという。
...と聞きましたが、Wikipediaでは別の人が買ったとありますね。
また売れたのは一枚だけではなく、数枚だったという説もあるとか。
まあ、いずれにせよ、彼が存命中に彼の絵はほとんど評価されていなかった、ということ。
...これも、Wikipediaには晩年には彼の絵を高く評価する人も現れていた、とありますが、
いずれにせよ、彼がその評価の恩恵を授かることはなかった。
時を経て現代、ゴッホの絵は億単位で落札されるという。
...なんとも哀しい話じゃないか。
芸術は貧に足りてこそ、理解できるものだと思う。
成金共にゴッホの想いが、理解できるのだろうか。
芸術を理解する者が芸術界では自由がきかず、
芸術を理解しない者が芸術界を動かす、という不思議な時代。
それでも表現者は自分のエゴを信じ、
自分を見失わずに生きねばならない。
それが「強さ」というものである。
[図録 2200円]
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ゼミの展示の撤収も終わり、一段落したところで。
久々にアート系の展示を観にいきました。
久々の東京国立近代美術館。
ゴーギャン展。
正直ゴーギャンはそれほど好きではないのですが、
中村先生からタダ券をもらったので。
印象派の絵が一番好き。
エゴと客観とがほどよくバランスがとれている気がして。
印象派以前はいかに模倣するか、いかに客観的であるかに重きを置き、
印象派以後は過度にエゴが露出してゆく。
とくにゴーギャンの時代はポスト印象派(後期印象派とも呼ばれるみたいですが)と
呼ばれ、ゴッホやセザンヌらと共に印象派の持つ客観性を離れ、
より自己の内部へと向かう。
客観的すぎる絵画は退屈だし、
かといって極端なエゴは自分の好みに合えばはまるけど、
そうでなければどん引きしてしまう。
自己と他者のほどよい調和の美しさが印象派の絵にはある気がするのです。
しかし。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
この人類の永遠のテーマには誰の心にも突き刺さるはず。
もちろん自分にも突き刺さった。
いくら考えても完璧な答えなど出てこないのに。
昨日出た答えは今日にはもう違う答えになっている。
この命題はメビウスの環のごとく、永遠に続く。