[光輪のある自画像(1889年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
西洋美術史Ⅱの授業も佳境。
ゴッホとくれば、当然次はゴーギャン。
精神が壊れてしまうほどの凄まじい情念で描いたゴッホが断然好きだけど、
スライドで作品を眺めていると、やっぱりゴーギャンも悪くない。
1847年6月7日パリ生まれ。
この年、二月革命が勃発、ジャーナリストだった父クロヴィスは、
革命後の弾圧を恐れて、母アリーヌの親戚を頼ってペルーへ亡命、
幼少期を南米で過ごす。
7歳の時フランスに戻り、6年間神学校で学んだ後、
17歳で船乗りになる。
23歳でベルタンの株式仲買人として働くようになり、
この頃から日曜画家として絵を描きはじめる。
25歳でメットと結婚、5人の子供に恵まれる。
26歳でピサロと出会い、印象派と出会う。
28歳にはサロンに入選。
画業に専心するために株式仲買人を辞める36歳の頃には
夫婦の間には完全な亀裂が生じており、
やがて家族とは離ればなれになる。
物質文明に嫌気がさし、
文明の及ばないブルターニュ地方の田舎町ポンタヴァンで絵を描くようになる。
しかし、小さな田舎町にも文明の波が及ぶようになると、
彼の地でも満足できなくなり、新たな楽園を求めて南国タヒチを訪れる。
2回のタヒチ滞在を経て、やがて彼の遺書と呼ばれる大作、
「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」
を描き上げる。
ゴーギャンの「狡さ」に人間らしさを感じる。
自分のエゴの追求のためには家族を捨てることすら厭わない身勝手さ。
そんな自分の身勝手さを痛いほど自覚しており、苦しむ。
そしてそんな自分の狡さを浄化するために絵を描く。
僕にはそんな風に見える。
そして、彼のそんな絵が好きだ。
親近感を感じる。
...僕の中にも「狡さ」があるから。

外の光から、人間の内面へ。
ゴッホが内面へと向かいながらも、あくまで外の世界にベースを置いたのに対し、
ゴーギャンはより大胆に人間の内面に入っていこうとした。
ゴッホが他の印象派の画家たちと同様、戸外での写生に励んだのに対し、
ゴーギャンは自分の内部のイメージに重きを置いた。
ゴッホとゴーギャン、この二人ほど面白い自画像を描く画家もいない。
[自画像(レ・ミゼラブル)(1888年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
[自画像(1890-91年)](出典:Wikimedia)
背景には自作品「キリストの磔刑図」が。
[自画像(1896年)](出典:Wikimedia)
タヒチ滞在時。
自分の顔にキリスト像を重ねようとするのは、
自分の聖性への自惚れからではなく、
自分の「狡さ」からの逃避、浄化からのように思える。
[メイエル・デ・ハーン(1889年)](出典不詳)
友人の画家。
冒頭の「光輪のある自画像」と対になる作品。
机の上にある2冊の本。
ミルトンの「失楽園」とトーマス・カーライルの「衣装哲学」。
物質文明への落胆が見えはじめる。
独特の宗教画も魅力的。
[説教の後の幻影(ヤコブと天使の戦い)(1888年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
[キリストの磔刑図(黄色いキリスト)(1889年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)
絵画だけでなく、陶器も作った。
[自刻像の壺(1889年)](出典不詳)
[タヒチの女のマスク(1890年)](出典不詳)
[愛せよ、さらば幸ならん(1889年)](出典不詳)
指をしゃぶる仕草は「性的な暗示」なのだとか。
タヒチでは、ヨーロッパの「かよわい女」に対して、「たくましい女」を描いた。
[テ・ナーヴェ・ネーヴェ・フェヌーア(かぐわしい大地)(1892年)](出典:Wikimedia)
[マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)(1892年)](出典:Wikimedia)
[ヴァイマルティ(1897年)](出典:Wikimedia)
手を地面に触れる仕草はゴーギャンが好んで描いた姿勢である。
大自然との一体感を表現しているとか。
でもやっぱりタヒチに渡る前の作品が好きだな。
常に自分に満たされず、楽園を求めてさまよい歩いたゴーギャン。
自分を満たすものが外にある、と思ったのが彼の過ちなのか。
自分を満たすものは自分の中にある。
そして自分のすぐそばにある。
そのことに気付くために人は遠くへ旅するのだ。