小説「聖書」新約篇。
旧約篇が主とその代々の民との長い契約の物語であるのに対し、
新約編は救世主(メシア)イエスを中心とした奇跡の物語。
正直、これまでは旧約と新約との関係がよく分からないでいた。
せいぜい旧約がキリスト誕生前、新約が誕生後、
という程度の認識しかなかった。
小説「聖書」の旧約篇、新約編を通して読むことで、
やっとその関連が分かった気がする。
それらは旧い契約、新しい契約なのだと。
旧い契約だけでは十分ではなかったから、
主は新しい契約を民と結ぶべく、神の子を地上に使わせたのだ、と。
法は守ることが第一目的ではない。
法を守ることで得られる秩序、幸福こそが第一目的である。
世は常に変化する。
だから法もそれに合わせて柔軟に変更できるものでなければならない。
しかし、本質を見失ってはならない。
愛ゆえに法がある。
法ゆえに愛があるのではない。
クラシカルな芸術の大半は聖書や神話を題材にしている。
だからその題材をよく知ることは、
芸術をより深く理解するための助けとなる。
ナザレのヨアキムの娘マリアは、大工のヨセフと婚約していたが、
ある日、主から使わされた大天使ガブリエルより
神の子が自分に使わされることを知らされる。
...いわゆる「受胎告知」である。
【レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」】(出典:Wikipedia)
そしてマリアは処女懐胎し、
ダビデの街ベツレヘムの馬小屋で神の子を生む。
...いわゆる「キリストの降誕」である。
【ジョルジュ・ド・ラ・トゥール[聖誕]】(出典:Wikipedia)
ユダヤ人の新しい王の誕生を拝しに東方から三人の賢者がやってきた。
...いわゆる「東方三博士の礼拝」である。
【ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」】(出典:Wikipedia)
彼らは黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
新しい王の台頭を恐れたヘロデ王は、街の幼い嬰児をすべて殺すよう命じた。
【レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」】(出典:Wikipedia)
主からの警告でヨセフとマリアはイエスを連れて、この難を逃れる。
イエスといっしょにいる幼子は、
釘職人ザカリアとエリサベトのあいだに生まれた洗礼者ヨハネ。
血縁的にはイエスのいとこである。
イエスに洗礼を授ける者、イエスに先立って民を導く者として生まれた。
マリアと幼子のイエス・ヨハネの聖母子像はよく描かれたテーマである。
【ラファエロ「ベルヴェデーレの聖母」】(出典:Wikipedia)
【レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」】(出典:Wikipedia)
アンナはマリアの母、ヨアキムの妻である。
【レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」】(出典:Wikipedia)
成長したヨハネは、兄弟の妻と結婚したヘロデ王を非難したため、
囚われ、獄に繋がれる。
【ギュスターヴ・モロー「出現」】(出典:Wikipedia)
そして、ヘロデの妻の策略により、
舞の褒美としてヘロデヤの娘(サロメ)にヨハネの首を求められたヘロデは、
ヨハネの首を切る。
聖書を難解にしている要因の一つに、
同じ名前のちがう人物がやたらと登場することが挙げられる。
【キリストの墓での3人のマリア】(出典:Wikipedia)
例えば、マリアはイエスの母である聖母マリア、
イエスの弟子としてのマグダラのマリア、
ベタニアのマリアと三人のマリアがいる。
ヨセフも聖母マリアの夫のヨセフと、
イエスの十二使徒の一人のヨセフがいる。
【ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「悔い改めるマグダラのマリア」】(出典:Wikipedia)
マグダラのマリアは七つの罪を犯した「罪の女」だった。
イエスに出会い、悔悛したことから「悔悛する女」の象徴となっている。
各地で奇跡を起こして廻り、人々からの熱狂的な支持を得る一方で、
安息日を守らないイエスに対し、
ファリサイ派の律法学者など一部の旧来の律法を遵守する人々からは疎まれるようになる。
やがては、イエスの十二使徒の一人であるユダがイエスを裏切り、
イエスを疎む人々に売り渡す。
【レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」】(画像は大塚国際美術館の陶板画)
イエスが弟子たちと過ごす最後の晩餐の場で、弟子たちの中に裏切り者がいることを告げる。
そしてイエスは裁判にかけられ、処刑される。
彼が助けたはずの民が彼の死刑を求めた。
【マンティーニャ「キリスト磔刑図」】(出典:Wikipedia)
笞打ちの刑の後、
二人の罪人とともに十字架に磔にされる。
両手両足首にくさびが打ち込まれ、頭にはイバラの冠がのせられる。
イエスがこときれたことを確認するために、
処刑人ロンギヌスはイエスの脇腹を槍で突いた。
...いわゆる「ロンギヌスの槍」である。
【ミケランジェロ「ピエタ」】(出典:Wikipedia)
十字架からおろされたイエスを抱き、息子の死を嘆き悲しむ聖母。
イエスの死後三日目、彼が埋葬された洞窟へマグダラのマリアが行ってみると、
イエスの亡骸はそこになかった。
【ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル「洞窟のマグダラのマリア」】(出典:Wikipedia)
...そして彼は復活する。
復活して弟子たちに主の教えを広めるよう説く。
【フレスコ画イコン「主の復活」】(出典:Wikipedia)
旧約篇に比べると、やはり示唆的な記述が多い。
そしてそれらの言葉はどこかで聞いたことがあるものが多い。
イエスは言った、「種をまく人は言葉をまく。その種とは、すべての人にまかれる神の言葉だ。ふみかためられた道のような人は、きくだけでその言葉をうけとめる。するとすぐにサタンが来て、それをうばってゆく。石の上の薄い土のような人ー彼らはよろこんで言葉をうけとめ、すぐに日の光のなかで芽を出す。しかし彼らにはねがないのだ。そのため苦難や誘惑にあうと、その光の熱でしなびてしまう。枯れて死んでしまうのだ。イバラの生えた土地のような人ー彼らは言葉をきく。そして言葉は彼らの心に根をおろす。しかし成長するにつれて、世の関心事や富や快楽や欲望にさまたげられ、最後に実をむすぶことはできない。しかしよい土のような人はーアンデレよ、言葉をすなおで正しい心でうけとめるのだ。かれらはそれをしっかりとたもち、忍耐づよく生き、三十倍、六十倍、そして百倍の実をつける」
ミレーやゴッホの「種まく人」はこの逸話からきている。
「種をまく」行為は神の言葉を広めることで、神聖な行為の示唆である。
イエスは語った。「心の貧しい人はさいわいだ、神の国は彼らのものだ」...「なげき悲しむ人はさいわいだ、彼らはなぐさめられる。柔和な人はさいわいだ。彼らは地をうけつぐ。正義のために飢え渇く人はさいわいだ。彼らはみたされる」アンデレは自分の最初の師であり友人である、ヨハネのことを考えた。彼はマケルスの地下牢でみたされているだろうか。イエスは言った、「あわれみ深い人はさいわいだ。彼らはあわれみをうける。心のきよい人はさいわいだ。彼らは神をみる。平和をつくりだす人はさいわいだ、彼らは神の子とよばれる」イエスはひと息入れ、それから真剣な調子で言った。「正義のために迫害されている人はさいわいだ。天の国は彼らのものだからだー」
旧約篇が「選ばれた民」のみ救う、という要素が強かったのに対し、
イエスは、あらゆる者を救いの対象にする。
強者も弱者も、良い人も悪い人も。
「...そしてわたしが律法や預言者を廃止するために来たと考えてはならない。子どもたちよ、わたしはそれらを完成するために来たのだ。あなたがたがきいているとおり、むかしの人は、『殺してはならない。殺した者はだれでも、裁かれなければならない』と命じられた。しかしわたしはあなたがたに言う、だれでも兄弟にたいして腹をたてた者は、裁かれなければならない。そしてだれでも姉妹を侮辱した者は、最高法院にわたされる。また『おろか者』という者は火の地獄へなげこまれる。あなたがたがきいているとおり、『姦淫してはならない』と命じられている。しかしわたしはあなたがたに言う、女をみだらな思いでみる者はすでに心のなかで彼女と不義をおかしている。またあなたがたがきいているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかしわたしはあなたがたに言う、悪人に手向かってはならない。もしだれかがあなたの右の頬を打ったら、もう一方の頬もむけてやりなさい。だれかがあなたの上着をとりあげようとしたら、衣もやりなさい。だれかがあなたに一ミリオン行かせたら、彼といっしょに二ミリオン行きなさい。物乞いする者にはあたえ、かりる者をこばんではならない。あなたがたがきいているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかしわたしはあなたがたに言う、自分の敵を愛しなさい。あなたがたを迫害する者のために祈りなさい、そうすればあなたがたは天の父の子となるだろうーなぜなら神は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい者の上にも、正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからだ。あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者になりなさい」
博愛の精神。
それがキリスト教を世界的に広めたのではないか。
「祈るときは、異邦人のようにくどくどむなしい言葉をならべてはならない。彼らは言葉が多ければ、ききいれられると思っている。あなたがたの父は、ねがうまえからあなたがたの必要なものをご存じなのだ。祈るときは、このように祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、あなたの御名ががあがめられますように。あなたの御国が来ますように。あなたの御心がおこなわれますように。天で行われるように地上でも。わたしたちに今日、日ごとの糧をおあたえください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちに罪をおかした者を、わたしたちがゆるすように。わたしたちを試練にあわせず、悪から救ってください。』」イエスはふたたび顔をあげた。「人々よ、あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは虫にくわれ、さびがついて宝はそこなわれ、泥棒が入って盗んでいく。あなたがたの宝は天に積みなさい。そこでは虫にくわれることも、さびがつくことも、泥棒が入ることもなくー宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。...
必要最小限の幸福。
そこに清貧の思想がある。
「裁いてはならない。自分が裁かれないためだ」彼はよびかけた。「兄弟の目のなかにある小さなちりに気づきながら、どうして自分の目のなかにある丸太に気づかないのか。それは偽善というものだ。まず自分の丸太をとりのぞきなさい。そうすればよくみえるようになって、兄弟のちりも取りのぞくことができる。もとめなさい、そうすればあたえられる。さがしなさい、そうすればみつけられる。たたきなさい、そうすればひらかれる。子どもがパンをもとめたときに、石をやる者がいるだろうか。生まれつき罪深いあなたがたでも、子どもにはよいものをあたえるなら、あなたがたの天の父はもとめる者にどれだけ多くのよいものをくださるだろうか。自分がしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。わが子たちよ、せまい門から入りなさい。破滅に向かう門は広くて入りやすい。しかし命にむかう門はせまくて入りにくい。...」
信じることは力である。
生きる力である。
だから人には宗教が必要なのである。
しかし欲や権力のために必要なのではない。
必要最小限の幸福で満たされた生を過ごすために必要なのである。
信じる者は救われる。
明日の自分を信じる者が、明日を切り拓ける。