建築という枠組み

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友達に誘われて、「3331 Arts Chiyoda」という
学校を改装したギャラリーに講演を聞きに行ってきました。

京都精華大学の卒業制作展示の一環で行われる連続講演、
「デザイン教育の現場から」の初日に行われたもの。
テーマは「建築という枠組み」、
講師は同大学で教鞭をふるう二人の建築家、永山祐子氏+片木孝治氏。


永山祐子さんは今をときめく新進気鋭の若手建築家、
一方、片木孝治さんは建築設計の次のステップとして、
農山村地域をアートで活性化するプロジェクトをメインに活動されています。
これも一種の「都市計画」なのだろうか。


建築と社会。
今、まさに僕が必死に考えている方向性につながるタイムリーな講演会。
でも、「若手」を簡単に信用せず、ソフト優先指向を嫌う自分の性格では、
たぶん一人で行くことは決してなかっただろう。


誘ってくれた友達に感謝。


ハードの魅力の再生を願う自分としては、
ハイセンスな永山祐子さんのポートフォリオに目を奪われた。
一方、失われつつある「木の文化」の復興を願う自分としては、
片木孝治氏の農山村地域でアートのできることを模索するプロジェクトも、
とても興味ある内容だった。


現場の最前線で活躍されているお二人に、
まだスタートラインに立ったばかりの僕にあれこれ批判できることなど何もない。
僕ができるのはただ「学ぶ」ことだけである。

これから述べることは、お二人に対する批判ではなく、
これから自分がやろうとしていることへの覚え書きである。
スタート時点での心構えとして記し、
これからぶち当たるであろう壁にぶつかったときに、
原点に返るためのしおりとして記しておきたいのである。
自分が初志貫徹できているかを確認するための道標としたいのである。


片木さんが哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を引用されてました。


  「世界は事実の寄せ集めであって、モノの寄せ集めではない」
  「建築は『モノ』ではなく『出来事』である」


正直、僕はこの表現があまり好きじゃない。
「モノ」はたいして重要じゃない、と誤解されるような気がするから。
ソフトウェア至上主義を押しつけられている気がするから。


「モノがあふれる時代」という。

しかし、本当によい「モノ」は少なく、
あったとしても同じようなものがたくさんあったりする。
良い本質が繰り返されることが本当によい「生産」なのだけど、
上辺だけを真似して複製したものは、本質までは繰り返されず、
無用な「ゴミ」となって増えてゆく。

大量生産、大量消費時代が終わったからといって、
「モノ」へのこだわりを捨てて良いわけではなく、
逆に「モノ」への思い入れをもっと強くすべき時代だと僕は思う。

あふれているのはゴミであり、
東京は今や世界有数のゴミシティである。
自然界にゴミはない。自然界に無駄なものなど存在しない。
動物の排泄物もほかの動物のエサとなったり、植物の堆肥となったり、
自然な流れの中で分解され、やがて土に帰す。
ゴミは自然の流れの中で有用なものに転ずることはまずない。
人が意図的に処理しない限り、いつまでもゴミであり続ける。
だからこそ、ゴミは有害なのである。

なくすべきは「ゴミ」であり、「モノ」ではない。
「コト」は「モノ」に付随するものであり、
「モノ」に置き換わるものではない。


すべての生き物には「必要最小限」のルールが課せられている。
世界は有限だから。
限りあるものを分けあって共有していかなければならない。
人間とて、例外ではない。
より豊かに生きたい、と願うにしても、
やはりその願いを実現するためには必要最小限のリソースで実現されるべきである。
オリジナリティはそのために追求される。
著作権など自己の権利を守るためだけに追求されるのではない。

しかしデジタルが蔓延する現代社会においては、
コピー&ペーストで簡単に、無限に複製できる特性に侵され、
必要最小限のルールが麻痺してしまっている。

世界は事実の寄せ集めであると同時にモノの寄せ集めでもある。
建築は出来事であると同時に、モノでもある。

老子の「無用の用」も中身が空の「器」という「モノ」があるからこそ、
そこに含まれる空間の「用」が理解できるのである。


一から作るか、リノベーションにするか、はポリシーとは関係ない。
それは単に必然性の問題である。
コストだったり、効率だったり。
「必要最低限」のルールは「妥協」とは異なる。
妥協の結果、得られるはずの幸福が犠牲になるのでは意味がない。
本当に必要ならば、一から作るべきであり、
そういうものはまだまだたくさんある気がする。

世界はまだ「良いもの」であふれていない。
変えていくべきものがまだたくさんある。


農山村地域の問題を解決するのは、都市部にいる人間だろうか。
農山村地域の能力が低く、都市部の能力が高いから、
農山村地域は都市部に救われなければならないのだろうか。

違うと思う。
中央を地方が支配する、という20世紀の社会構造が間違っているのである。
仮に農山村地域の能力が低く、都市部の能力が高いのが事実なら、
それは単にスケール、量の問題である。
まさに「大は小を兼ねる」である。

しかし巨大なスケールは、細部が見えなくなる。
そして小さな綻びがやがて大きな亀裂となり、破滅へと至る。
まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」。

人間には適度なスケールが必要である。
そしてローカルの問題は、ローカルにて解決するのが基本である。
地産地消である。
人にも地域にも自立性が必要である。
自立性を維持するために適度なスケールが必要である。
あるスケールを越えると自立的にコントロールできなくなってしまう。


対象の外からの客観性はあくまで補助的な立場であるべきだと思う。

一緒に講演を聞きに行った友人が、
越後妻有ビエンナーレの案内を都市部の人間がしているのを見て、
奇妙に思ったとか。
「なんで開催地域をよく知っている地元の人がやらないのか」と。

田舎の人にデザインやアートの効能を理解してもらうのが
至難の業だというのはよく分かる。
僕も地方の出身で、二十歳まで地元にいたけれど、
そういうものには無縁だったから。

しかし、都市部がハイセンスで、田舎がナンセンスかというと
必ずしもそうではないと思う。
都市部は単にそのスケール故にセンスを磨く機会が多いだけであり、
感覚を磨くための環境、という点においては、
無駄なもの、余計なものが少ない田舎の方が有利のような気もする。
ゴーギャンがタヒチで、ゴッホがアルルで、
モネがジヴェルニーで、セザンヌがエクサンプロヴァンスで
自らの感覚を開花させたように。


技術が多くの人の生活に密着しているのに対し、
芸術は一部の人−好きな人、才能のある人、お金のある人たちしか
縁のないものだと思われている。

これは比較的芸術に理解のある都心部においても、
結構根強い誤解ではないだろうか。
農山村地域ではいかばかりか。


昨今のデザイナーやアーティストは「機能」を考えすぎのように僕には思える。
まるで技術を模倣するかのように。
それがまったく悪、だとは言わないけど、
芸術を根幹とするものを無理矢理技術に転換するのはスマートじゃない。

専門家が機能を与え、クライアントがその機能を享受する。
こういう一方通行の経済社会はもう古いと思うし、
専門家がますます大変になるだけの不健全なスタイルだと思う。

デザイナーやアーティストといった専門家は、
本質的なベーシックな形、「美」をクライアントに与える。

クライアントはそこから最適な機能を自分自身で見いだす。
クライアントに「工夫」する面白さを見つけさせる。
それが本当に良い「モノ」ではないか。

永山祐子さんのLLOVEでデザインした部屋にそのような「良さ」を感じた。
砂利の床や部屋の中の樹木は、部屋の中を移動しにくく、
一見過ごしにくく感じる。
しかしなぜか雰囲気としては心地よい。
利用者はずっとこの部屋に居たい、と思い、
ずっと居るための工夫を考えるようになる...

大事なのはまず「便利だ」と論理的に理解させることではなく、
「ずっと使いたい」と感覚的に感じさせることではないか。

シンプルさは安易さのためになされるより、
美しさのためになされるべきである。
前者は最初のとっつきは良いが、やがて飽きられる、という点で
サステナブルではない。

僕は世間で言うところの「建築」がしたいのではないかもしれない。
自分の卒業制作作品にあえて機能をつけられなかった理由が、
この辺にあるような気がしてならない。
同時にそこに自分のアイデンティティがあるような気もするのである。


「デザイン教育の現場から」というメインテーマについても、
自分の経験上からの意見を少し触れておきたい。

エンジニアの領域からデザインの領域へ移ってきて思うことは、
デザインの領域は「ゆるい」「あいまい」、そしてまだまだ「浅い」。
僕はプロダクトデザインから空間デザインへと学びの場を移したけれど、
空間デザインの領域で、その傾向をより強く感じた。

単に学校の特性なのか、分野全体での傾向なのかは分からない。

感覚を扱う分野なので、絶対的な尺度を設けにくいのかもしれない。
そして分野としての歴史の浅さが、カリキュラムの浅さとなってしまうのは
いたしかたないことなのかもしれない。

デザイン教育についてはもっともっと、成長の余地があると思う。


  「所詮学校で学ぶことには限界がある」
  「仕事は社会に出てから身体で覚えろ」


こういう一般論は聞きたくない。
当たり前すぎることだし、そんなことを言ってたら
本当に大学の存在意義が危うくなってくる。
決して安くない学費を、青春を謳歌するためだけの費用とするだけの余裕が
今、この国にはたしてあるのだろうか。


建築ほど複合的・有機的で、それでいて本質的・根源的な分野もないと思う。
それだけにこの分野の教育がもっともっと進化していくことを願ってやまない。