瀬戸内国際芸術祭2019夏会期がはじまりました。
...と思ってたら、その夏会期もあと一週間で閉幕です。
相変わらずの遅筆ですが、夏会期のレポートを随時していきたいと思います。
2013年・2016年と過去2度、芸術祭には行ってますが、
夏会期に行くのは今回がはじめてでした。
今回も早朝出発して下道でのんびり高松港に向かったのですが、
のんびりしすぎて船の時間が中途半端になってしまい、
やむなく高松市街エリアを回ることにしました。
まずは夏会期オープンの北浜エリアを経由して、
高松市美術館で開催されている宮永愛子展へ。
いやあ、暑い。
暑いときはクーラーの効いた館内でアート鑑賞するに限る。
待ちに待った夏休み。
まず最初に向かったのは神戸市内にある兵庫県立美術館。
大震災からの復興プロジェクトとして計画され、安藤忠雄氏の設計で2002年に開館。
海沿いに建つ美術館の周囲には市立のなぎさ公園が整備され、
ひとつの巨大なランドスケープを形成しています。
愛媛からは松山自動車道、徳島自動車道を経て淡路島を横断して本土に入り、
垂水インターチェンジで阪神高速3号神戸線に入り、摩耶インターまで。
高速降りて5分ほどで美術館に到着。
盆休みということで渋滞を心配してましたが、
阪神高速に入るまではほぼ渋滞なし。
阪神高速は断続的にノロノロ運転でしたが、想像してたよりは流れていてよかった。
それにしてもまあデカイ。
デカすぎて全体を把握するのが難しい。
真夏の昼間ということもあって周囲を一周する気にもなれず、
さらには一部工事をしている箇所もあって、なおさら全体像の把握を難しくしてました。
基本的には細長い長方形ブロックが3つ平行に並んだ構造で、
そんなに複雑な構造ではないはずなのに、いざその内部へ足を踏み入れると、
複雑に入り組んだ空間に戸惑いを感じてしまった。
まあ、面白いといえば面白く、安藤さんも意図的にそういう空間づくりをしたのかな、と。
草間彌生『ハーイ、コンニチワ!ヤヨイちゃん』『ハーイ、コンニチワ!ポチ』(2004)
広島県尾道市の千光寺公園の中にある尾道市立美術館へ行ってきました。
国内の現代アートコレクターを代表する高橋龍太郎氏、田口弘氏、桶田夫妻の
膨大なコレクションから第一線で活躍する現代アーティストの作品約40点を展示する
企画展が開催中でしたが、自分のもっぱらの関心は、
安藤忠雄設計によりリニューアルされた美術館そのものでした。
開館当初の美術館の様子を知らないので、新旧の変化を探ることはできないのですが、
古い伝統的な寺社建築の前に安藤さん独特のコンクリートボックスが配置されるという
割りと分かりやすい構造なので安藤さんの行った改修ポイントがそれなりに見えた気がします。
外見的には比較的新旧の建物の区別がはっきりしているのですが、
内部はシームレスにつながっており、単に古い建物の前に新しい建物を加えただけでなく、
一つの美術空間としてトータル的に見直されたことが分かります。
とくに小泉八雲に詳しいわけでも興味があるわけでもないのですが。
この夏に愛媛の国宝・大宝寺に訪れたときに、
そのお寺に伝わる逸話を小泉八雲が「怪談」におさめたことを知りました。
今回中四国の国宝建築巡りで松江城に訪れることを決めたときに、
その近くに小泉八雲の記念館および旧居があることを知り、
お城とセットの共通入場券もあることだし、ということで訪れました。
パトリック・ラフカディオ・ハーンは1850年6月27日に、ギリシャのレフカダ島で
アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれる。
当時はアイルランドはまだ独立しておらず、レフカダ島もイギリス領だったこともあり、
ハーンはイギリス国籍を有していました。
2歳のときにアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリック教育を受ける。
19歳のときに父母代わりだった大叔母の破産を機に単身渡米、ジャーナリストとして身を立てる。
シンシナティ、ニューオリンズ、カリブ海マルティニーク島と移り住み、
ニューオリンズ時代に万博で日本文化に出会い、興味を持つ。
そして1890年4月に日本の土を踏みます。
日本人女性と結婚し、帰化することで「小泉八雲」と名乗ることにした。
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力する一方で、
得意の語学力を生かして日本文化を欧米に伝える執筆活動にも尽力した。
よく知らないながらもなぜか気になるのは、
同じ「流浪の民」としての社会における位置づけが気になるからであろうか。
念願の三佛寺を参拝してきました。
本寺は鳥取県のほぼ中央、三朝温泉奥の三徳山(標高900m)に境内を持つ天台宗の山岳寺院です。
中国観音霊場 第三十一番札所
伯耆観音霊場 第二十九番札所
百八観音霊場 第三十六番札所
国指定名勝・史蹟
国立公園 三徳山
日本遺産認定第1号
開山は慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされる。
役行者が蓮花の花びら三弁を散らしたところ、
一つは四国の石鎚山、一つは吉野、そしてもう一つが三徳山に落ちた。
そこで役行者は三徳山に堂宇を建て、法力をもって投げ入れたのが奥の院の投入堂...
という伝説がありますが、実際のところ投入堂が実際どうやって建てられたのかは今なお謎のままだとか。
その後、嘉祥二年(849年)、慈覚大師(じかくたいし)によって伽藍(がらん)が建立され、
阿弥陀・釈迦・大日の三尊を安置したので三佛寺といわれるようになったそうな。
かねてより行きたかった場所だけにけっこうなボリュームになりました。
そこで本堂までの参道部分と、本堂裏から奥の院の投入堂までの登山道部分の2パートに分ます。
まずは本堂までの参道部分をレポートします。
[谷上山(伊予市)の桜]
一昨年、昨年はいろいろといっぱいいっぱいでほとんど春の景色を撮れなかったのですが、
今年はまだまだ混迷状態が続くものの、だいぶ心に余裕ができたこともあって、
そこそこ出歩いて春の息吹を感じることができました。
というわけで、伊予路の春の風景をまとめてみました。
今年は例年に比べて全体的に花の量が少ないような気がしますが、
それでもやはり、色とりどりの花が次第に花を開かせていくさまは、
心がワクワクするものです。
[テオドール・ジェリコ『襲撃する近衛騎士官』1812](出典:Wikipedia)
それまでの装飾的・官能的なバロック、ロココの流行に対する反発として、
18世紀中頃から19世紀初頭にかけてに台頭した新古典主義。
しかしそれもやはり一通り落ち着いてしまうと、時代はさらに次の様式へと移行する。
それがロマン主義。
保守的・安定的だった新古典主義に対して、再び革新的でダイナミズムな作風へ。
...歴史は繰り返す。
本記事は社会人学生時代の自分の西洋美術史のテスト答案を元に再構成したものです。
テストは授業内容(ルネサンス以降の美術史)の中から2つ、
自分にとって「最も大きな発見」をピックアップして自分の意見も含めて説明しろ、というもの。
自分は「バロック様式」と「ロマン主義」をピックアップ。
採点は見事100点をいただきましたが、
だからといって本記事が客観的に絶対正しい、ということを保証するものではありません。
あくまで一学生の主観に基づくレポートであることをご理解ください。
[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ『マグダラのマリアの改悛』(1590年代半ば)]
(出典:Wikipedia)
秩序の支配を受けることとなったルネサンスへの反動から、
マニエリスムを経て時代はバロックへ。
不安定なときは安定を求めて人は動くが、
一度安定してしまうと、今度は退屈という感情が襲ってきて、
今の安定を捨て、新たな別の安定に向けてあえて不安定を選択する。
歴史はその繰り返しだ。
本記事は社会人学生時代の自分の西洋美術史のテスト答案を元に再構成したものです。
テストは授業内容(ルネサンス以降の美術史)の中から2つ、
自分にとって「最も大きな発見」をピックアップして自分の意見も含めて説明しろ、というもの。
自分は「バロック様式」と「ロマン主義」をピックアップ。
特にバロック様式は西洋美術史の中でも一番好きなジャンルでもある。
採点は見事100点をいただきましたが、
だからといって本記事が客観的に絶対正しい、ということを保証するものではありません。
あくまで一学生の主観に基づくレポートであることをご理解ください。
広島県福山市の「神勝寺 禅と庭のミュージアム」に行った折、
せっかくなので福山で一泊しようと福山駅前に宿を取ることに。
福山駅の北側には福山城があり、東京で会社員をしていた頃、
実家に帰省する度に新幹線の車窓からこの福山城を眺めていたものですが、
上京してからじつに25年以上の月日を経て、ようやく訪れることができました。
福山駅は新幹線はもちろん、在来線も高架の完全な高架駅なのですが、
駅周辺の南北を結ぶ道路は狭く、南側の雑多な繁華街に対し、
北側は天守閣を博物館にした福山城博物館をはじめ、
ふくやま美術館や広島県歴史博物館などが集まる静かな文化エリアとなっています。
線路を挟んでまったく異なる顔を持っているのが特徴的です。
今回は北側の見事な美術空間をレポートしていきます。
四国唯一にして日本最大の特別名勝・栗林公園に行ってきました。
栗林公園の起こりは、16世紀後半、当地の豪族佐藤氏によって、西南地区に築庭されたことに始まるといわれ、1625年頃に当時の讃岐国領主・生駒高俊公によって紫雲山を背景に南湖一帯が造園され、現在の原型が形づくられました。
その後、1642年に生駒氏に代わって高松に入封した初代藩主。松平頼重公の時に園内六十景命名をもって完成し、明治維新に至るまでの228年間、松平家11代の下屋敷として使用されてきました。
明治8年に県立公園として一般公開されるようになり、昭和28年には、文化財保護法による「特別名勝」に指定され、今日に至っています。
国の特別名勝に指定されている文化財庭園の中で、最大の広さ(約75ヘクタール)を持つ栗林公園は、緑深い紫雲山を背景に六つの池と十三の筑山をを巧みに配し、四百年近い歴史を誇る江戸初期の回遊式大名庭園として、すぐれた地割り、石組み有し、木石の雅趣に富んでいます。(パンフレットより)
芸術上または観賞上価値が高い土地について、
日本国および地方公共団体が指定したものを「名勝」と呼び、
さらにその中でもとくに重要なものとして指定されたものを「特別名勝」と呼ぶ。
日本には36の特別名勝がありますが、四国にはただ一つ、栗林公園のみ。
そしてこの公園は日本最大の特別名勝でもある。
瀬戸内国際芸術祭など高松に行く機会がよくあり、
この庭園の前も何度となく通っているのだけど、今回ようやく訪れることができました。
市街地のど真ん中にこんなに大きな自然庭園があるなんてびっくりです。
フランスの旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」において、
栗林公園は「わざわざ旅行する価値がある」として、三つ星施設に記載されているそうです。
また、明治時代の教科書には日本の三名園(兼六園、偕楽園、後楽園)よりも「木石の雅趣」が優れている、と記されているのだとか。