The Book of Tea(茶の本)【岡倉天心】:レポート

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2年次に選択履修した共通教育科目、『特講Ⅱ』。


前期は世阿弥「風姿花伝」、後期は岡倉天心「茶の本」を、
受講生持ち回りで読んで感ずるところを講師を交えて考察する、という授業。


評価は「A」でした。

前後期ともレポート課題です。
あまり優劣をつけるような授業ではなく、
きちんと出席して自分の担当パートをこなせば単位はもらえる感じでした。


以下提出したレポート。

あくまで自分の考察を第三者に問いたい、という欲求によるものであり、
レポートはこう書けばよい、という手本ではありません。
あしからず。



【課題】後期の授業の内容で興味深い思った問題をテーマとして自分で設定し論じよ。(2000字以上)

テーマ:「茶室」


 授業での発表でも第4章「茶室」を自発的に選択しましたがそれは今、自分が一番興味を持っていたのが建築だったから。大学へはプロダクトデザインを学ぶつもりで入ったのですが、学ぶうちに「空間を内包するプロダクト」である建築にどんどん惹かれていきました。そしてこの授業での岡倉天心との出会い。それは僕の今後の進路を方向付ける1つの要素となりました。

 20世紀を代表する建築家の一人にル・コルビジェがいます。彼は「住宅は住むための機械」というスローガンの元に、最新の技術や素材を建築に取り入れて建築を進化させた人で、個人邸宅から集合住宅、教会、果ては都市計画にまでその規模を広げました。その彼が晩年さまざまな建築活動の末に建てたのは、愛する妻のための小さな家でした。最小限の空間に最小限の家具。このル・コルビジェの妻のための小さな家が日本の茶室となにかしら重なるものを感じるのです。この最小限の空間を持つこの家こそ、究極の建築なのではないか、と。
 
 4畳半の方丈の部屋には最小限のものしか置かない。茶道具などは茶を点てるとき以外は水屋という別の部屋に納められる。床の間には時節に応じた植物が必要に応じて活けられる。来訪者に伝えたいメッセージがある場合は書や絵画などが掛け軸にかけられさりげなく飾られる。小さな茶室といえど主人と客が占有する場所が点前座、客座と明確に区別されるばかりか、お互いが茶室に入室するまでの経路までもが勝手口、躙り口というように明確に区別される。さらには茶室で茶を嗜むための茶事の流れは厳格に作法、所作が決められている。一見するとそれは大変窮屈のように思えます。しかしその作法や所作の云われや意味などを知れば、その所作に則ることが楽しくなるはず。空間そのものはなにもない「無の場所」ですが、周囲になにももない場所では空間を感じることはできません。周囲になにかが置かれることで空間を感じることができるようになります。なにもないところに「なにを置くか」を考えることが建築であり、それを最小限に留めるのが茶室だと思うのです。
 第六章「花」で天心は人間のエゴイズムが指摘します。ただ美を愛でるためだけに花の命を絶つ。そしてそのことに罪深ささえ感じない。本来生きものは生きるために他の生きものを殺生します。さらに自らの強い種を残していくために同種同士で争い、殺し合うことさえある。人間もその例外ではない。種を繁栄させていく、という大義名分の元であれば、それらの行動は正当、と言えるかもしれない。ただ、人間の場合は少し様子が異なります。人間は「より良く」生きるために他の生きものを犠牲にする。そして「種」ではなく、「エゴ」という自分自身のために他人と争う。その行動が他の生態系や地球に与える影響が微々たるものならば、人間だけの問題ですむのかもしれない。でも人間はあまりにも賢すぎた。その優れた知恵をエゴのためだけに使うことで他の生きものだけでなく、自らが住む大地までもを侵してきた。このように考えると「人間は生まれながらにして罪人である」というキリスト教の言葉が胸に刺さる。お金があればなにをしてもいいわけではない。無駄に広く、贅沢な家を建てていいわけではない。そしてそうした家が幸せをもたらしてくれるわけではない。本来生きものは生きるための最低限でしか他の種に干渉しません。人間は必要以上に他の生きものたちに干渉する自らの行為を悔いなければならない。そうしなければいつかその生きものたちを滅ぼしてしまう。いやすでにいくつかの生きものを人間は滅ぼしてきた。過ぎたるは及ばざるがごとし、度が過ぎれば他の生きものだけではなく、ついには人間自らをも滅ぼしかねない。

 ル・コルビジェと並び20世紀を代表する建築家であるミース・ファン・デル・ローエは言います。「Less is more.(より少ないことは、より豊かなこと)」と。「Simple is best.」も同じような意味じゃないでしょうか。生きていくための必要最低限の活動の中に最大限の喜びを見出すこと-それこそが人間が「美」を求める根源であり、茶室が究極の建築たる所以であると思うのです。

 広大無辺のなにもない空間に自由などない。そこは「無」だから自由さえもない、というべきか。自由を感じるのは無の場所に秩序を作っていく、その過程ではないでしょうか。一見窮屈と思える作法やルールもそのルーツや歴史、存在理由を学べば感じ方も変わってくる。自分も自分に最適な秩序を作ろうと思うようになる。日本の戦後の荒廃した住宅事情を復活させた建築家の一人である清家清は「技術に秩序を与え、統一的な状態にもっていくのが、建築家の仕事なんです。」と言います。かつて日本人は1つの空間を時間の流れるままに対応して利用してきました。客が来れば座布団を出して客間とし、食事時にはちゃぶ台を出して食堂とし、寝るときには布団を敷いて寝室とした。清家氏はこれを「舗設(しつらえ)」と言います。優れた建築とは住む人が必要に応じて「しつらう」ことのできる空間を持つものではないでしょうか。そして優れた茶室とは訪れる人それぞれが思慮の幅を、想像力を広げることのできる場所ではないでしょうか。

 建築を志すと心に決めた今、自分もいつかそんな茶室を建ててみたいと思う次第です。


5人程度の少人数でのんびりした雰囲気でしたが、
得るものは多かったです。