「秘すれば花」花伝書―風姿花伝

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大学の基礎教育科目で「特講Ⅱ」という授業を選択しています。
講師は「美と芸術」の小穴晶子先生

この授業は前期と後期で1冊ずつ決められた本の内容について
ゼミ形式で発表してゆくもの。

前期は世阿弥の花伝書。
600年経た現在もなお読まれ続けている能の解説書。
上記の講談社文庫本は川瀬一馬氏による校注、現代語訳つきで
古文が苦手な人でもすんなり入っていけると思います。


秘すれば花。
花とは「魅力」。

隠せば魅力的?
...さて、その心は?

別段能にそれほど興味があるわけでもない。
能はおろか、演劇そのものにそれほど興味もない。
映画を人並みに楽しむ程度。

それでもこの本は僕の心を捉えて離さない。

世の中の「本質」というものが述べてある気がするから。


前期の授業内容についてレポート課題が出ました。
以下にその内容を記載します。

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【課題】 前期の授業内容で興味深いと思った問題をテーマとして論じなさい。
      (2000字以上)


テーマ: 「究極の幸福論」


 テーマを何にするか考えてから論じていこうとするとまずはテーマ選びであれこれ迷いそうなので、まずは授業を通して感じたことをまずは思いつくままに述べていき、その過程でテーマを見いだしていくことにします。

 正直僕はそれほど能には興味はかありませんでした。能を演じるのはもちろん、能を見ることにすら興味はなかった。では、なぜこの授業を選択したのか?それは「風姿花伝」という言葉の響きが素敵だったから。それまで風姿花伝を読んだことはなかったけど、「秘すれば花」という言葉はその意味はよく分からないまでも、なんとなく知識として頭の中にありました。そして「秘すれば花」という言葉の意味は分からなくともやはり言葉の響きが素敵だと思っていた。つまりは言葉の響きが素敵だから内容もさぞかし素敵だろう、という安易な発想、良く言えば第六感的な直感に導かれて選択したのでした。...その結果、前期を終えた時点ではその直感は正しく、この授業を選択して本当に良かったと思っています。

 風姿花伝を読んで、能を演じてみたいと思うことは相変わらずないけど、一度くらいは観劇してみたいかな、とは思いました。ただ風姿花伝を読んで一番感銘を受けたのは能の素晴らしさを解説していることではなく、「能とはどんなものか?」を表面的には解説しているように見えながらも実は世の中の「本質的なもの」を解説しており、人生訓を教えてくれるものであったこと。だから能にそれほど興味のない僕をぐいぐいと引き込んだ。それを解説するだけで深い人生訓を教えてくれるのだから能というものはさぞかし素晴らしいものなのだろう、そう思ったわけです。実際に能が素晴らしいものなのか、はたまた単に世阿弥の文章の上手さに騙されているのか、能を知らない僕にははっきり分からないけど能の名手として後後世までその名と作品を残していることを考えればたぶんその両方なのでしょう。

 本質的なものとは基本的に「変わらないもの」だと思う。だから600年の時を経多現在も尚、その文章は物事の真実を伝え続け、魅力を失わない。何かを志し、その志を全うするために身につけなければならない知識や技術はその志によってまちまちだけど、志を全うするためにしなければならないことはそう変わらないものだと思うのです。学校という場所にいると、とかく目の前の知識や技術の修得にこだわりすぎて、修得しようとする知識や技術をどのように生かすか、といった本来の目的=本質が曇りがちになる。ただ本質は心の中にあるものだから、教師が教えてくれるものじゃなく、自分で見つけていかなければならない。今思えば若い時分にはそういった本質から得られる「やり甲斐」までも先生に求めて失望していたような気がします。自分の本分は自分で見つける。知識や技術はその本分を見つけるための道具であって、教師や学校はその道具の使い方をおしえてくれるのみ。その道具を使って何をするか、までを教師や学校が決めていたら、学生はもはや人間ではなく、ロボットになってしまう。自分で問いを考え、自分で答えを見つける。「考える」大切さを風姿花伝は教えてくれた気がします。

 「花」とは珍しさであり、面白さであり、魅力である。花は永遠ではなく、一時的なものであるから珍しく、注目される。本質=変わらないものとすれば、花そのものは本質ではないことになります。しかし人間は知ろうとする対象とは全く別の対極にあるものと「比較」することで対象を認知するいきもの。「明るさ」を知覚するには「暗さ」を理解していなければならないし、「白」という色を知覚するには「黒」という色を知っていなければならない。「善」を知るには「悪」が何であるかを知っていなければならない。このように世の中というものは「対極の理論」で成り立っているのではないでしょうか。だから永遠に変わらない本質を知るには一時的な存在である「花」を知る必要がある。しかし一方で人間は「変化」を好むいきものでもある。だから一時的な存在である「花」に美しさを感じ、魅力を感じる。でも花そのものに囚われていてはその対極にある本質を見つけることはできず、ただ変化に流されてしまうだけで終わってしまう。そんな状態では「自分」を自覚することもなく、ただ「面白い」という感情に流されるだけ。それはそれで一つの幸せの形なんだろうけど、それだけでは寂しすぎる気もします。変化の対極にある本質を見つけることで人はもっと幸せになれるのではないだろうか?感情に流されるだけの人生も空しいし、変化のない人生も退屈だ。変化と本質を状況に応じて使い分ける。これぞ究極の幸福論ではないだろうか。

 二十代の頃、僕は合気道に明け暮れていました。上達するために苦しい練習を重ねた時期もあった。苦しい練習、という側面だけに注目すればなぜそんな苦しい思いをしてまで合気道をするのか、と他人はいいます。でも練習の結果得られる合気道の本質というものを知っているから僕は頑張れた。合気道は二人一組で組んで演武を行うものですが、組む相手によって力の加減や技を仕掛けるタイミングといったものが微妙に異なる。自分や相手のコンディションによってさらにそういったものは変化し、調整するのが難しくなるけど、それがまた合気道の面白さでもある。求める合気道の本質は変わらないけれど、そこに至るまでの過程は変化に富んでいる。そこが合気道の魅力であり、合気道の「花」なのです。

 ここまで書いてテーマが明確になりました。僕にとって風姿花伝とは「究極の幸福論」なのだと。変化と本質の対極の存在を教えてくれ、時と場合によってこの両者を使い分けることの大切さを教えてくれた。見えない本質を見つけるためにまず見える「花」を見つける。これが「秘すれば花」という言葉がいわんとすることではないかと自分には思えるのです。

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後期は岡倉天心の「茶の本(The Book of Tea)」。

...こちらもなかなか良さげです。