円空の魅力

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2年次に選択履修した共通教育科目『日本美術史Ⅱ』。


日本美術の中でも主に仏像を中心とした彫刻史を学びます。
仏像好きには良いかも。

僕は格別仏像が好き、というわけでもなくて、
1年の時に西洋美術ばかり履修したので、
日本美術も少しは学ばなきゃ、という感じで選択しました。

ちなみに「日本美術史Ⅰ」は絵画史がメインです。
僕は立体的なものが好きなので、Ⅱのほうを選択しました。


比較的弱者救済よりの授業スタイルで、
出席してれば単位あげるよ~みたいなゆるい感じです。
先生自身、自分の研究で忙しかったこともあって、
僕が受けた年はけっこう休講が多かったです。

だから評価も均一的なのかな...と思っていたら「S」評価でした。
確かに授業は無欠席だったけれど。


前期はテストもレポートもなし。
後期にレポート1本提出。


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レポート課題は日本美術史に登場する作家をひとり取り上げ、
作品と作家の関係について論ぜよ、というもの。

僕は仏師、円空を取り上げました。
上野での展示を見て感動したので。

以下提出したレポート。
手書きで提出せよ、というのはPC慣れした身体にはけっこう辛かった...
一度PCで原稿を入力してそれを手書きで清書しました。

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「円空」


 円空仏をはじめて見たのは昨年上野の国立博物館で開催された「対決-巨匠たちの日本美術」会場だった。至る所でそうされているようにその会場でも木喰仏と並べられ、比較されていた。どちらも木彫仏でありながら一方は原木の痕跡を留め、粗野で荒削りな仏、かたや優美な曲線で丁寧な仕上げが施された仏。この二つの仏像に紙面で出会っていたなら、木喰仏に心を奪われていたかもしれない。しかし展覧会場で実物を眺めたとき、圧倒的に円空仏に魅せられた。全方向からバランス良く彫り込まれている木喰仏のほうがほぼ正面からのアングルからしか彫り込まれていない円空仏に比べて立体的なのだから見栄えは逆になりそうなものだが実際はそうではない。木喰仏は仕上げが丁寧すぎて一見するとその材質が木であることを忘れさせてしまう。一方円空仏はその仕上げの粗さゆえに木の材質感が否が応にも現れる。そしてその「木」の材質感が暖かみを与え、仏の微笑みに真実味を与え、さらに仏に光があたるとまるで後光が射すかのように神聖さを与えるのである。また、円空が作成した仏は生涯に十二万体とも言われその数において木喰を圧倒している。一つでも多く仏を創るために粗雑な創りをしたのかもしれないが、仏の姿をあえて明確化しないことで仏の神聖性、神妙さを大切にする、という部分もあったのかもしれない。それでいて、仏の慈悲が確かにそこにある、という強い存在感を与える。木喰は仏の姿を視覚的に見せることで仏の慈悲を与えようとした。一方円空は仏に「触れる」ことで仏の慈悲を伝えようとしたのではないだろうか。通常は神仏に触れるなど恐れ多いものだから、木喰のように視覚的に見せるのが一般的といえる。人間は感覚情報のおよそ七割を視覚に頼るというから、なにかをできるだけ多くの人に的確に効率良く伝えようとするとき、人は視覚情報を多分に利用する。しかし、「喜び」とか「暖かさ」という幸福感を最もよく伝えてくれるものは触感だと思う。親に抱かれて子は親の愛を感じる。信頼する友人と握手し、ハグすることで友情を感じる。恋人とキスをし、抱き合うことで愛を感じる。一番近い距離で触れ合うことで人は愛を感じる生きものではないだろうか。神仏の本来の目的は人々に幸せを与えることであって、人々を地にひれ伏させ、崇めさせるためではないはず。

 細部がはっきりしないから人はもっと近寄って眺めようとする。近寄ってみると木の材質感が見えてくるから仏に触りたいと思う。実際触って良かったのかどうかは分からないが円空は触らせたいと思ったはずだ。一方木喰物は細部がはっきりしてるから遠くからでも比較的その実体の様子がよく分かる。だから人々は近くに寄ろうとしない。

 「触れる喜び」-円空とはそれを伝えようとした作家ではなかったろうか。


 【参考資料】
  図録 「円空-慈悲と魂の芸術」展
  図録 「野生の芸術-円空」展
  図録 「異端の放浪者 円空・木喰」展
  「歓喜する円空」梅原猛著、新潮社

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これまで西洋美術ばかり目を向けていたのですが、
この授業を受けてから日本美術にも関心を向けることができるようになりました。

その点ではやはりおおいに収穫のあった授業だったと思います。