「学び」の対価

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後期の学費をようやく払い終えた。
本来の〆切からおよそ1ヶ月ほど遅れて。

...本当に「ようやく」だ。


これで4年間全ての学費を全て払い終えた。
あとは卒業制作を終えれば、卒業はできる...はず。

結局学費に当て込む予定だった前の会社の退職金は、あっという間に底をついた。
浪費癖はない(と思っている)が、生来の計画性のなさで、
本当にあっというまに底をついた。

1年生の時は社会人特典の学費割引、
2年生、3年生のときは多摩美の奨学金を受けた。
それでも足らずに、育英会の助けを借りた。
それさえも足らずに友の助けを受け、
自らも制作時間を削ってまで働かなければならない。


それでも後悔はしていない。
僕は「時間」を買ったのだ。
その「時間」で多くのことを学び、多くの「気づき」を得、自分の進むべき道を見出した。

それでもその一方で思うのである。

はたいた大金に値するものを、
この大学は与えてくれたのだろうか、と。


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自分で学費を払って大学に行って、いかに大学に金がかかるかを実感した。


親の養育下で、学校に行かせてもらっている時分では、
自分の学びにお金がかかっていることなどこれっぽっちも意識しなかった。
現役学生にしてみれば、成長の時期としてもちょうど反抗期の末期である。
自分一人では生きられないくせに、自分の親をやたらと卑下したがる。
教育を神聖化し、学びは金額に代えられない、と青臭いことを言ったりする。

しかし大学は教会ではない。
学校での学びにお金がかかっているのは厳然たる事実であり、
支払っているお金に対して対価を求めるのは、
消費者としての当然の権利である。

学校が特殊なのは、
お金を払う人間=親と、サービスを受ける人間=子が別であるために、
費用対効果が見えにくい部分である。
金を出す親は、教育義務のためとはいえ、
自分が出資するものに対する見返りを求めている。


  自分の子供が幸せな人生を歩めますように。
  一生のやりがいを見つけることができますように。


親の務めとはいえ、
自分以外の人間に大金をはたくのは尊い犠牲である。
自分で学費を出して学べば親の大変さが分かる。
だから僕は社会人学生をオススメする。


自分で身銭をきって学ぶといい。
いやでも元を取ろうと学びに対して貪欲になるはずだ。
周囲を切り捨て、孤独になってみるといい。
あらためて自分が周囲に生かされていることが実感できるはずだ。
贅沢を捨て、自分の生活レベルをぎりぎりまで清貧にするといい。
生きるための最低限必要なものが見えてくる。
ちいさな煌めきにも感動を見出せるようになる。


満たされる者は貪欲になれない。
どうか大学という場所が、金持ちの道楽の場になりませんように。

学びの場所が、学びに対して貪欲になれなくて、
そこに未来はあるのだろうか?