かつて5年くらい前まで。
デザインや建築のことなど、ほとんど考えたことなどなかった。
10代はわけも分からず自分の身の不遇を嘆き、
20代はそこから抜け出そうと必死にもがき、
30代ではじめて社会における自分の位置づけを考えはじめた。
そして辿り着いたのが、今の場所。
しかし職能としてはまだはじまってさえいない。
これから先のことを考えると、果てしなく遠く感じる。
それでいて流れる月日は光陰矢のごとし。
そして残された時間は無限ではない。
もっと早く、せめて10年前にスタートしていたら。
考えても仕方がない、と分かっていても考えてしまう。
もしかしたら僕はデザイナーにはなれないかもしれない。
もしかしたら僕は建築家にはなれないかもしれない。
...しかし今はそれは問題ではない。
自分がなるべきものに、自分が本当にやりたいと思っていることに、
挑戦していることに意味がある。
本質を追究していくことと、生きる糧を得る手段とがいつも一致するわけではない。
しかし常に一致させようと願い続け、信じ続け、挑戦し続けることに意味がある。
...これは決して理想論ではない。
「より良く生きる」ための唯一の方法である。
学内展で制作する作品の打ち合わせをしました。
授業としては来週から正式スタートなのですが、会場準備など、
いろいろとやることが多いため、少し早めにスタートすることに。
今回は同級生と組んで二人でやろうと思っています。
先生的には二人で一つの作品形態はあまり賛成してくれていないのだけど。
自分の強みと相手の強み。
上手く相互を補完することができれば良いものができるのではないかと思い、
とりあえず一緒に考えていくつもりです。
歳の割には空想的で造形にこだわるおっさん(僕)と、
歳の割には現実的でシステムにこだわる若者。
...なかなか良いコンビだと自分では思ってます。
地上から常に足が浮いてそうな自分を地面にしっかりつけさせてくれそうな気がする。
コンセプトを確認しあい、スケッチに起こしてみる。
それを元にスタディモデルを作ってみる。
...が、まだまだ美しくない。
「見た目にこだわる」
人によってはあまり良い意味に捉えない人もいるかもしれない。
「大事なのは中身だろ」「本当に大切なものは形には見えない」
中にはそう言う人もいるだろうし、それは間違いではない、と僕も思う。
しかし、それでも形は本質的なものだと僕は思う。
本質を備えたものは、自ずとその形、すなわち「見た目」にその本質が現れる。
それが「美」というものだと思う。
それが美を見出す、ということなのだと思う。
本質を備えた美は、色褪せることがない。
だから長く使われ続ける。
本当に良いものは、いかに早くその本質に気づくか、という点にあるのではなく、
いかに長く使われ続けるか、という点にあると思う。
人々に本質的な美を理解してもらうためには、
論理的に説明することももちろん重要ではあるけれど、
それに終始することだけでは十分ではない。
自分の中の感覚を良いものに磨き、その感覚を信じることが大切である。
今の時点で実績ゼロの自分の言葉など、説得力ゼロであることは重々承知。
自分自身がそのことを忘れないために今、僕は記録しているのである。
わけもなく惹かれる形、というものがある。
心を捉え続ける形というものがある。
...そういう形を探し続けたい。
もって生まれたセンスというものがある。
そのセンスがなければデザインなどできない、と言う人もいる。
一方で、磨くことによってセンスは光ってくる、という人もいる。
たいていのデザインは磨くことで光ったセンスで行われている、と。
前者の先天的なセンスは生まれたときからその大きさは決まっている。
その大きさは一生変わらないだろう。
しかし後者の後天的なセンスは磨けば磨くほど、大きくなる。
どれだけ磨いたら光るのか、というセンスの成長度は人それぞれだけれど、
磨き続ければ必ず光る。
ある意味、才能とはどれだけ同じことを集中して行えるか、ということではないだろうか。
昔から絵は下手だった。
下手だと思っていた。
...まあ確かに絵のセンスは僕にはない。
しかし絵のセンスがないこと以上に、
絵を描くことを必要としなかった、という状況のほうが僕には悲劇だった。
必要に駆られて描いてみると、意外と描ける。
人とコミュニケーションがとれるほどのものは描けるようだ。
いまさら画家にはなれない(なりたいとも思わない)けれど、
絵を必要とする職能には就けるのではないか。
今はそう思う。
もちろん、それにはもっともっと描かなければならないけれど。
結局のところは方法とか手段といった問題ではなく、「時間」の問題なのだろう。
時間をかけてじっくり磨けば必ず光る。
しかし人には有限の時間しか与えられてはいない。
だから焦るのだ。
近道を探すことより、余分に背負った荷物を降ろすことを考えよう。
そのほうがたくさん歩ける。
僕は美を見出し、創造したいのであって、自分自身を美化したいわけではない。
ただ単に、愚直に同じことを繰り返し続けるために必要な「強さ」が欲しいのである。
前立腺がんを告白した間寛平のように。
言葉にすることで決意が小さな「形」になる。
形にできれば磨いて大きくすることができる。
...だから僕は愚直に記録するのである。
3年生最後のセッションを頑張ろう。
学内展を成功させよう。
そして4年生になろう。
就職しよう。
ma-ke
お久しぶりです。
たしかに、内省して、自分がなにを考えていて、何がしたいのか、
書くことで見えてくることもあるかもしれません。
でも、一心不乱に突き進んでいる人が内省して立ち止まったりするでしょうか。
関心は芸術に向くはずで、
自分の内面は二の次になると
思います。
やはりtadaohさんの内面には、
まだ迷いというのが色濃く
生じているんだと思います。
その迷いがなくならなければ、
つまり、このような日記を
書かなくても良いようにならなければ、
結局は夢をあきらめざるを得ない状況になってしまうんじゃないでしょうか?
その時のいいわけのために
「おれは好きなことをするために
挑戦し、夢破れたがそれは
意味のあることであった」と
言いたいがための布石を
このブログで打っているように見えるのです。
自分の内面を考えざるを
得ない人間は、困難を追う
うえでは弱いものだと
思うのです。
tadaoh
ma-keさん >
コメントありがとうございます。
> でも、一心不乱に突き進んでいる人が内省して立ち止まったりするでしょうか。
> 関心は芸術に向くはずで、自分の内面は二の次になると思います。
一心不乱に突き進むことだけが強さではないと思います。
時には立ち止まる勇気も強さではないでしょうか。
迷いのない人は内省せず、芸術に向く、というのはいささか極論のように思えます。
むしろ優れた芸術家ほど、強い内省、エゴがあるように思えます。
確かに僕の中には迷いや弱さがあります。
が、同時に僕の中には強さがあることも感じます。
強さと弱さは排他的なものではなく、共存するものだと僕は思うのです。
弱さの上に弱さを積み重ねて人は強くなるのではないでしょうか。
ある弱さを克服しても、また別の弱さが現れる。
それを恥じる必要は全然ない。
それが普通なのだから。
いいわけもまた、弱さであると同時に強さではないでしょうか。
また、いいわけは他人に対してするものです。
自分にいいわけをすることはできない。
つまり内省する上では、いいわけはなんの効能も発揮しない。
> 自分の内面を考えざるを得ない人間は、困難を追ううえでは弱いものだと思うのです。
弱いから強くなれるのです。
自分の中から弱さを追い出すのではなく(その行為こそが究極の弱さである)、
受け止め、向き合うことが強さだと僕は信じます。
自分を内省しない限り、本当の自分を知ることなどできない。
自分を知らなければ、自分の外にあるものを理解などできない。
だから僕は内省そのものを悪だとは思わないし、内省そのものをやめる気は毛頭ありません。
だからどんなに強くなっても、
僕はこれからも内省し続けるでしょう。
これはネガティブな思考ではなく、ポジティブな思考だと僕は信じます。
#URLのリンクは適切ではないと判断し、削除させていただきました。
ma-ke
返信ありがとうございます。
自分の中の弱さを認めるという
let it be 的な考えは
ぼくは好きじゃないです。
弱さが強さになり得るというのは
全く同意します。
僕が「弱い」と書いたのは、
困難を無理やりにでも
乗り越えなければならない状況
においては、人の思考などなんの役にも立たないということです。
むしろ考えていない、無心で
やっていた人間は軽々と
それを乗り越えて、後から
自分が超えた壁の高さを認識するんだと思いますよ。
ですから、自分の人生や
自分自身のことを事後的に
つらつらと考えてばかり
いると、視野が狭くなることも
あるんじゃないですか。
ということを言いたかったんです。
tadaoh
#どうやらURLのリンクが間違っていたみたいですね。
nickさんですよね?
最初誰だか分かりませんでした^^;
ネットといえど、アイデンティティは大事ですよ。
いや、ネットだからこそ重要か。
> 自分の中の弱さを認めるというlet it be 的な考えはぼくは好きじゃないです。
僕は好きなんです。僕の中ではしっくりくるんです。
それを他人に押しつける気は毛頭ありません。
考え方は人それぞれです。
> 困難を無理やりにでも乗り越えなければならない状況においては、
> 人の思考などなんの役にも立たないということです。
僕はそうは思わない。
思考と行動が良いバランスを伴ってこそ、困難を乗り切ることができる。
自分の人生経験上、僕はそう信じています。
もちろん、そうでない人もいるでしょう。
どれが正しいかを論じる気は毛頭ありません。
> それを乗り越えて、後から自分が超えた壁の高さを認識するんだと思いますよ。
これも僕にとっては否。
壁の高さを事前に認識しないで、どうして「高い壁」を乗り越えられるのだろう。
もし乗り越えられた、という人がいるならば、その壁は元々高くなかった、ということでは?
> 自分の人生や自分自身のことを事後的につらつらと考えてばかりいると、
> 視野が狭くなることもあるんじゃないですか。
現状や未来だけを考えていても、他人のことだけを考えていても、視野は狭くなりますよ。
過去、現在、未来に至る時間や自分と他者、自分と社会との関係をトータル的に考えてこそ、
視野は広まるのだと思います。
しかしいずれにせよ、自分が出発点。
自分を見つめて見つめすぎることはない、と僕は思ってます。
もちろんそれだけでは不十分で、自分の外にも興味を向けるようにしていますが、
自分の外の環境についてはなにぶんプライバシーの問題も絡んでくるので、
自分のことほどに書けない、という問題もあります。
nick=ma-ke
そうでした、nickでした。
なるほど。
僕は人間の判断など
当てにしない、それが
自分の判断だとしても。
という立場です。
これなんだかネガティブで
卑屈に聞こえそうですが。
dont think, feel.
というブルースリーの言葉には
手放しで賛同するんです。
同時代に生きた
Einstein、picasso
彼らの歩んだ道はとても
困難な道であって、彼らが
乗り越えた壁は凡人には
目がクラクラするほど高い。
でも彼らはその壁を高いと感じただろうか?
僕はそんなことないだろうなぁ
と思うんですよね。
いや、できるっしょ
みたいな楽観があっただろうし
目の前のものに一生懸命に
なっていて、気づいたら
超えてたんだと思うんですよね。
それゆえに彼らに内省という
概念があったと推測するのは
難しいんです。
dont think, feel.
考えた時点で負けることもある。
このへんは僕の予想です。
失礼しました。
tadaoh
> でも彼らはその壁を高いと感じただろうか?
感じたと思いますよ。
僕はピカソを大学で学んでそう思いました。
キュビズムの同時性は彼の深い内省からきていると僕は思います。
ただ無我夢中でいるだけでは、あの理論は生まれない。
「無我夢中」...いい言葉です。
しかし誰しもいつもいつもそんな状態でいられる訳じゃない。
深い思慮の果てに無我の境地がある。
仏陀の悟りのように。
無我夢中になるために、内省するんです。
「dont think, feel.」という言葉も、
けっして「考えたら負け」という意味ではなく、
考え抜いた末に信じるべきは自分の感性である、ということではないでしょうか。
ma-ke
>深い思慮の果てに無我の境地がある。
>仏陀の悟りのように。
>無我夢中になるために、内省するんです。
アグリーです。
まったくアグリーです。
考えることを否定したいんじゃないんですよね。
どれだけ考えられているかって
ところじゃないですか。
その依って立つ考えが
貧弱じゃどうしようもない。
そのあたり、tadaohさんは
自分の考えというものに、どれだけ
自信をお持ちなのか知りませんが、
言いたいのは、中途半端な
思索に依って立つのは
めちゃくちゃ危険であるな
ということです。
ですから、最近なんかやたらと
批評めいたことが
流行してますよね。
たとえばmixi。
あのなかで、大勢が
自分の考えを語っているけれども
どれもそんな考えは持っていない
方がよろしいというような
ものばかり。
それなら、考えるより
畑を耕していた方が
人間として間違いなく美しい。
tadaohさんの考えが浅い
なんて言いたいんじゃないんですが、
考えることを強調する人は
それなりに、自分の考えに
ついて根本的にそれが正しいか
疑う姿勢も必要なのでは?
ということです。
表現しづらいですが
tadaohさんの文章に
よどみがないのがちょっと
疑わしかっただけです。
羨ましかったのか。。?
すみません、出すぎました。
tadaoh
> 中途半端な思索に依って立つのはめちゃくちゃ危険であるなということです。
うーん、言い方の問題だと思うのですが、
「完璧な考え」などというものはないわけで、ある程度核がまとまっているならば、
あとは行動しながら考えていくことが必要なんでしょうね。
それもある意味中途半端な状況なのかもしれませんが、めちゃくちゃ危険だとは僕は思いません。
ちょっと心配だけど、そのくらいの冗長があるほうが、逆に考えが成長していける気がします。
mixiはああいう巨大なコミュニティですから、
良いものもあれば、悪いものもあるのは当然で、
使う側で正しく取捨選択していく能力が必要なのだと思います。
中には良いものも埋まっていると思いますよ。
畑を耕すこともまあ美しいですが。
> 自分の考えについて根本的にそれが正しいか疑う姿勢も必要なのでは?
猜疑心は強い方なので常に疑っていますが、文章にそれが見えませんか?
> よどみがないのがちょっと疑わしかっただけです。
現実は淀んでますよ。
ただ目指すべきところが淀んでいてはまずいでしょう。
このブログではそういう理想に向かいたい、という希望も含めて記録しているのです。
#やたらと改行が多いですが、携帯からアクセスされてるのですか?
ma-ke
パソコンからです。
大学の課題のどこに意味があるんです?
凄い優等生のオーラを感じるんです。
もっと飛躍があってもいいんじゃないですか。
芸術ってそういうものじゃないですか。
あたりさわりがないんですよ、もっとアブナイ方向へ行きましょうよ!
コルビュジェだって、立原道造だってもっと飛躍がありますよ!!
エランヴィタール!!
honaga
おいおい、アップされている絵で、絵を描いていく職能につけるって。あんた、これくらい描けると思わないか?
普段からスケッチ訓練してるんだろ。こんなので職能で食っていけるって自己満かよ。
毎回毎回、自分を鼓舞するような事を書いてるんでやりたいことはわかるよ。
でもな、それらが全てへ理屈に聞こえてくるわ。
あんたの文章は一見、まとまっているかと思われるけどやたら理屈ばかり述べてる印象があるからな。
前のコメントで学が欲しかったら、もっといい大学に行くわとか言ってたやろ。
それは、浪人してムサビとか目指してる一般受験生に失礼やろ
苦労して大学合格目指してるんだよ。
そういう発言からして、おまえの傲慢さがわかるわ。
別に苦労して一般試験で受かったわけでもなく、たまたま受かった感じで、
3年やってきて、センスというか己の力量や可能性とかわかるだろ。
他の学生がグラフィック的作品出して評価されるとそんなのは、リアルの3Dじゃないとか文句いってるあんたがさ。
平面で評価されるもんを作れんなら立体でも落とし込めるんだよ。それは確固としたイメージがあるからや。
おまえにはそれがないんやろ。
40近い未経験でポテンシャルあるかもわからない。
その年だしやり直し厳しいだろうし、今後の人生とかそういう責任も負わされるんだよ。
あんたが、経営者の立場だったらそんなの採用するか?
同じポテンシャルあるなら若い方を採るわな。
よっぽど優秀なら話が違うけど。
ま、このブログを通して転職適齢期を越えた、未経験の者が異業界で職に就けるかを計れる一助にはなるかな。
今年、どうなるか楽しみにしてるぞ。
tadaoh
> honaga
毎回礼儀もわきまえず、ケチつけるよね。
言ってる内容は分かるけど、だいたいありきたり。
自分の正体を一切語らないから説得力もまるでない。
新たに得るところもない。
屁理屈おおいにけっこう。
すべての人が賛同してくれるとは思わない。
コメントするすべての人があんたみたいな人ばかりなら、
自分がおかしいのかな、と考えを改める気も起きるのだけど、
過去5年ブログを書いてきてそんな人は皆無。
...だからおまえが一番傲慢なんだよ。
> こんなので職能で食っていけるって自己満かよ。
> 平面で評価されるもんを作れんなら立体でも落とし込めるんだよ。
事例を出さなきゃ説得力もない。
> 学が欲しかったら、もっといい大学に行くわとか言ってたやろ。
> それは、浪人してムサビとか目指してる一般受験生に失礼やろ
> 苦労して大学合格目指してるんだよ。
「箔が欲しかったら、もっといい大学に行く」と言ったんだよ。
自分の通う大学について言ったのに、なんで美大全体の話になるんだよ。
益にならない上にさらに話をねじ曲げないように。
苦労しようがすまいが、正規のルートで入学したんだから、
自分の入った大学を評価するのは正当な権利だと思うが。
態度が悪いながらも、何度もコメントをくれるのは
それなりにアドバイスの気持ちがあるからと思ってこれまでコメントを承認してきたけれど、
どうもそういう気配はなさそうなので、今後はこのようなコメントは即スパムにします。
ケチをつけたいだけならお断り。
> ま、このブログを通して転職適齢期を越えた、
> 未経験の者が異業界で職に就けるかを計れる一助にはなるかな。
ならんよ。
人の振りで自分の身の振りを決めるような輩には。
だから楽しみにしてくれなくてけっこう。
tadaoh
ma-keさん >
大学の課題の意味なんて、学生自身が見出すものでは?
それこそ単に「面白いから」で良いじゃないですか。
実際僕は課題を楽しんでいる。
別に課題でなくてもいいかもしれないけど、
せっかく学費を出すんだから、
課題を楽しめる方がいいじゃないですか。
ただぶっ飛ぶだけが芸術なの?
そこに至るまでには愚直なまでにあたりさわりのない、地道な作業の積み重ねがあるのでは?
僕は別に優等生ぶるつもりは毛頭ない。
それどころか劣等感の固まりです。
その劣等感と闘いながら、
亀の歩みながらも自分の人生を模索しているのです。
「型にはまっていてはつまらない」と言いたいのですか?
それならこの歳で大学に来ていること自体が既に型から外れてます^^;
ma-ke
型にはまっていてはつまらない。
そうです!
ぼくが言いたかったのはそれです。
tadaohさんがおいくつなのかは知らないのですが、
たしかに、30を過ぎて大学に入学し、
ましてやそれが芸術分野の大学でしたら、
それはかなりチャレンジングなことだと思います。
だがしかし!その道を選んでしまった以上芸術にまみれて、
死ぬ気で戦うしかないんじゃないでしょうか?!
ブログを書いて内省する行為は
ぼくには悠長にみえてしかたがない!
哲学者になりたいわけじゃないですよね!?
でも哲学者の思考はもっと血みどろの
思考ですよ。生半可な思考ではない!
芸術がやりたいんですか!?
エランヴィタールを感じないんですよ!
岡本太郎の言葉でいえば、宇宙に向かって爆発する煙さえも
見えないんです!!
tadaoh
なるほど。
ところで、あなたは今、死ぬ気で戦っていますか?
僕は僕なりに今、前向きに頑張っています。
ブログもその頑張りの「一部」です。
その一方であなたが言うような生ぬるい部分があるのも確か。
「死ぬ気で戦っているか?」という問いに対し、
YES!と胸を張って答えられないことは認めます。
しかし。
その言葉を言うからには、僕の心が動くだけのものを
あなたが持っていなければ説得力ないとは思いませんか?
どこの誰かも分からない人に「ぬるい、もっと死ぬ気でやれ」と
言われてあなたはその気になりますか?
ma-ke
死ぬ気でやってる人間は
自分が死ぬ気でやってるなんて
認識はおそらくしないだろうと
思います。
たぶん、やらないと死ぬと思って
やってるんじゃないでしょうか。
やらないと死ぬという状況や心境は、
hungry精神というと陳腐ですが、
その根っこは、自己肯定ではなくて自己否定にあると思います。
これをやり遂げなければ自分ではない、というストイックさです。
僕なりにやってるという
自己肯定的な認識では
到底やれないと思いますよ。
tadaoh
死ぬ気でやっている人は、その状態を意識できないかもしれませんが、
死ぬ気でやってない人は、その状態を意識できますよね?
で、あなたはどうなんです?
honaga
失礼しました。
言いたい事は、
浪人とかで苦労して昼間の大学受からなくて、多摩2部に来てる人もいるんだよ。
そういった人におまえごときが言うことじゃないわ
それが失礼なんだよ
>事例を出さなきゃ説得力もない。
おまえのブログで書いてるやろ
http://tadaoh.net/design/2009/12/post-578.html
山中さんもイメージを持ってるから平面から立体にも
表現できるんやろ。
他にも、種田陽平さんだよ。
実際の建築じゃないけど、
映像空間美術で平面から模型・立体に起してるだろ。
どれも、確固たるイメージを持ってるから、平面から立体にしても魅力ある物が出来るんだよ。
とにかく、あんたにはイメージがないんだろ。
今年、1年楽しみにしてるぞ。
tadaoh
> 浪人とかで苦労して昼間の大学受からなくて、多摩2部に来てる人もいるんだよ。
> そういった人におまえごときが言うことじゃないわ
> それが失礼なんだよ
あくまで「大学」という組織を評価してるのであって、学生個人を評価してるわけじゃない。
それから社会は基本的に結果を評価するのであって、努力を評価するのではない。
以上二点を勘違いしないように。
それにしても。
受験の苦労は大学に入るまで。
就活の苦労は会社に入るまで。
受験で苦労したから、就活で苦労したから、そのぶん尊重しろ、って大学や会社に言うわけ?
おまえ、やっぱり甘いよ。
説得力ないわけだ。
>事例を出さなきゃ説得力もない。
山中さんは確かに。
しかしこの人は別格だよ。
このレベルのスケッチをする3Dデザイナーはそうそういないと思うけど。
種田陽平さんは初耳なので今後チェックしてみます。
情報ありがとう。
> とにかく、あんたにはイメージがないんだろ。
あるよ、それなりに。
それが伝わっていないのは俺の力不足なんだろうけど。
で、あんたはどれだけのイメージがあんの?
それが分かんなきゃ説得力ないよ。
ma-ke
死ぬ気でやるという認識自体がfictionですよ。ここでぼくが死ぬ気でやってますなんて書いてもなんの真実味もないでしょう。
核心を言えば
tadaohさんはこのブログで内省し、自分の立ち位置を確認することで、チャレンジしている自分に酔ってしまっているのではないかということです。
それをぶち壊してくれる環境にないんだと思いますよ。大学ってヌルイところです。
tadaoh
> 死ぬ気でやるという認識自体がfictionですよ。
じゃあ最初からその言葉を使うな。
fictionはそれを扱う力を持つものが使ってはじめて効果がある。
> tadaohさんはこのブログで内省し、自分の立ち位置を確認することで、
> チャレンジしている自分に酔ってしまっているのではないかということです。
大きなお世話です。
自己陶酔もある程度は必要です。
すべての記事でそうしてるわけじゃない。
> それをぶち壊してくれる環境にないんだと思いますよ。大学ってヌルイところです。
そのぬるさは自分の中にあるんだよ。
芸術はぶっ飛んでなきゃいけない、という安易な発想。
型にはまってちゃつまらない、hungryでなきゃならない、という当たり前の指摘。
自分のぬるさを環境のせいにする責任転嫁。
正しい言葉を書けば相手はそれで納得する、という安易な考え。
...はっきり言って甘い。
僕も甘いが君はもっと甘い。
匿名の共感は力になる。
人は無条件に善意を喜ぶ動物だからです。
しかし匿名の否定はなんのプラスにもならない。
人は無条件に否定を嫌うからです。
他人からの否定を受け容れるにはそれを発言する人に説得力がなければならない。
それには発言者のアイデンティティがある程度必要になる。
他人を否定し、正すには発言者に力が必要です。
匿名にはその力はない。
あの人はあれだけ頑張る人だから、あの言葉に重みがあるんだな、と。
特に人間の深い感情部分を指摘するのなら、なおさらそれが必要。
だからあなたはどれだけ死ぬ気で戦っているの?と問いかけたのです。
しかしあなたは自分のこととなるとお茶を濁す。
自分を濁す人と真剣なお話ができるでしょうか。
安易な否定は人を傷つけます。
別に僕だけの話ではないと思います。
それを自覚した方がいいと思います。
僕は比較的M体質なので、まあ忍耐強いほうですが、それでもかなり不愉快に感じました。
この長いコメントのやりとりでなにか得るものがあったのなら、まだ救いもある。
しかし結局新しい気づきはなにもなかった。
一心不乱にやれることが幸せなのは誰でも知ってます。
でもそれができないから悩み、迷うんじゃないですか。
その問題に対する答えをあなたは何一つ提起してくれていない。
10回説得力のない否定をされるくらいなら、
ただ1回「ガンバレ」と応援してくれる方がよっぽどためになる。
真剣にコメントしてくれたから、僕の正直な気持ちを吐露しました。
真剣なコメントに対し、無礼な態度をお許しください。それは申し訳なく思います。
ただ、それだけ不快に思ったということです。
助言に関しては極力耳を傾けていたいと思ってます。
自分より若くても、自分とは違う考えであっても、自分とは違う道の人でも。
ただ、あなたの言葉はあなたの中の自分が見えないから説得力がない。
コメントに自我を入れたくなければ、2chなどの掲示板でやってください。
ブロガーにもよると思いますが、僕はコメントにアイデンティティを求めたい。
これ以上否定され続けても、あなたが自分の「経験」を話さず理論だけを話すつもりなら、
やはり説得力がないのでやめてください。
長々とコメントありがとう。