玉磨かざれば光なし

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かつて5年くらい前まで。

デザインや建築のことなど、ほとんど考えたことなどなかった。

10代はわけも分からず自分の身の不遇を嘆き、
20代はそこから抜け出そうと必死にもがき、
30代ではじめて社会における自分の位置づけを考えはじめた。

そして辿り着いたのが、今の場所。

しかし職能としてはまだはじまってさえいない。
これから先のことを考えると、果てしなく遠く感じる。
それでいて流れる月日は光陰矢のごとし。
そして残された時間は無限ではない。


もっと早く、せめて10年前にスタートしていたら。
考えても仕方がない、と分かっていても考えてしまう。


もしかしたら僕はデザイナーにはなれないかもしれない。
もしかしたら僕は建築家にはなれないかもしれない。

...しかし今はそれは問題ではない。


自分がなるべきものに、自分が本当にやりたいと思っていることに、
挑戦していることに意味がある。

本質を追究していくことと、生きる糧を得る手段とがいつも一致するわけではない。
しかし常に一致させようと願い続け、信じ続け、挑戦し続けることに意味がある。


...これは決して理想論ではない。
「より良く生きる」ための唯一の方法である。

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学内展で制作する作品の打ち合わせをしました。
授業としては来週から正式スタートなのですが、会場準備など、
いろいろとやることが多いため、少し早めにスタートすることに。

今回は同級生と組んで二人でやろうと思っています。
先生的には二人で一つの作品形態はあまり賛成してくれていないのだけど。

自分の強みと相手の強み。
上手く相互を補完することができれば良いものができるのではないかと思い、
とりあえず一緒に考えていくつもりです。

歳の割には空想的で造形にこだわるおっさん(僕)と、
歳の割には現実的でシステムにこだわる若者。

...なかなか良いコンビだと自分では思ってます。
地上から常に足が浮いてそうな自分を地面にしっかりつけさせてくれそうな気がする。


コンセプトを確認しあい、スケッチに起こしてみる。
それを元にスタディモデルを作ってみる。
...が、まだまだ美しくない。


「見た目にこだわる」

人によってはあまり良い意味に捉えない人もいるかもしれない。

「大事なのは中身だろ」「本当に大切なものは形には見えない」

中にはそう言う人もいるだろうし、それは間違いではない、と僕も思う。


しかし、それでも形は本質的なものだと僕は思う。
本質を備えたものは、自ずとその形、すなわち「見た目」にその本質が現れる。
それが「美」というものだと思う。
それが美を見出す、ということなのだと思う。

本質を備えた美は、色褪せることがない。
だから長く使われ続ける。

本当に良いものは、いかに早くその本質に気づくか、という点にあるのではなく、
いかに長く使われ続けるか、という点にあると思う。

人々に本質的な美を理解してもらうためには、
論理的に説明することももちろん重要ではあるけれど、
それに終始することだけでは十分ではない。
自分の中の感覚を良いものに磨き、その感覚を信じることが大切である。

今の時点で実績ゼロの自分の言葉など、説得力ゼロであることは重々承知。
自分自身がそのことを忘れないために今、僕は記録しているのである。


わけもなく惹かれる形、というものがある。
心を捉え続ける形というものがある。
...そういう形を探し続けたい。


もって生まれたセンスというものがある。
そのセンスがなければデザインなどできない、と言う人もいる。

一方で、磨くことによってセンスは光ってくる、という人もいる。
たいていのデザインは磨くことで光ったセンスで行われている、と。

前者の先天的なセンスは生まれたときからその大きさは決まっている。
その大きさは一生変わらないだろう。

しかし後者の後天的なセンスは磨けば磨くほど、大きくなる。
どれだけ磨いたら光るのか、というセンスの成長度は人それぞれだけれど、
磨き続ければ必ず光る。

ある意味、才能とはどれだけ同じことを集中して行えるか、ということではないだろうか。


昔から絵は下手だった。
下手だと思っていた。
...まあ確かに絵のセンスは僕にはない。

しかし絵のセンスがないこと以上に、
絵を描くことを必要としなかった、という状況のほうが僕には悲劇だった。


必要に駆られて描いてみると、意外と描ける。
人とコミュニケーションがとれるほどのものは描けるようだ。
いまさら画家にはなれない(なりたいとも思わない)けれど、
絵を必要とする職能には就けるのではないか。
今はそう思う。
もちろん、それにはもっともっと描かなければならないけれど。


結局のところは方法とか手段といった問題ではなく、「時間」の問題なのだろう。
時間をかけてじっくり磨けば必ず光る。
しかし人には有限の時間しか与えられてはいない。
だから焦るのだ。

近道を探すことより、余分に背負った荷物を降ろすことを考えよう。
そのほうがたくさん歩ける。


僕は美を見出し、創造したいのであって、自分自身を美化したいわけではない。
ただ単に、愚直に同じことを繰り返し続けるために必要な「強さ」が欲しいのである。

前立腺がんを告白した間寛平のように。

言葉にすることで決意が小さな「形」になる。
形にできれば磨いて大きくすることができる。

...だから僕は愚直に記録するのである。


3年生最後のセッションを頑張ろう。
学内展を成功させよう。

そして4年生になろう。
就職しよう。