3年次への進級が決まり、2年次の成績も確定した、ということで。
2年次で提出したレポートなどを紹介していきます。
あくまで自分の考察を第三者に問いたい、という欲求によるものであり、
レポートはこう書けばよい、という手本ではありません。
念のため。
万が一この記事を読むのが大学の先生ならば、
レポート課題は面倒でも毎年毎回テーマを変えることをお願いしたいです。
学生のモチベーションを上げるのも講師としての度量のうちではないでしょうか。
毎年同じ課題でコピペですむような課題は
学生にとっても講師にとって無意味ですし。
まずは『写真表現史』。
写真大好きな先生で、写真について語るときの表情は本当に幸せそうです。
こんな風に語れるものを自分も持ちたいと思いました。
まずは前期の課題。
先生が指定する写真に関する本のリストから、
自分が気に入ったものを2冊選んでテーマを設定して論じるもの。
僕は大島洋著の「アジェのパリ」と
日本人でバウハウスに学んだ女性、山脇道子著の「バウハウスと茶の湯」を選択。
以下提出したレポート。
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テーマ: 「 写真の価値は誰が創造するのか? 」
読んだ本:『アジェのパリ』 (大島洋) & 『バウハウスと茶の湯』 (山脇道子)
僕がこの2冊の本を選んだのに格別の理由はありません。芸術の都パリに「アジェ」という言葉の響きが妙にマッチしていて気に入ったのと、近代デザインの元初である「バウハウス」というデザインを学ぶ身としてただ単純にこのキーワードに惹かれたこと。それがこれらの本を選んだ理由です。僕は写真にそれほど深い造詣があるわけではないのでアジェや大島洋という写真家はもちろん知らなかったし、かたや山脇道子さんについても勉強不足でその素性はよく知らなかった。そんな浅い理由で選んだ二冊なので二冊の間の関連性などまったく意識してなかったわけですが、偶然の出会いにしてもこの出会いには何かしら意味があるのかもしれない。この二冊の出会いは僕に何かメッセージを発しているのかもしれない。レポートを書く、という課題がきっかけとしても、そう考えることは自分にとって何かしらプラスになると思うのです。とはいっても、この二冊を強引に関連づけるのは無理があるし、関連づけること自体が目的ではないので、まずはそれぞれの本を読んで感じたことを述べ、その過程で自然に気付いた関連性などがあれば述べていきたいと思います。つまりはレポートを書きながら内容を模索してゆくわけですが、これは「アジェのパリ」で著者がアジェが撮影したパリの風景を追う冒険とも呼べる行動にも似て、なんかわくわくします。行動してみてはじめてその目的に気付く。そこが冒険の面白さなのかもしれない。
...というわけでまずは「アジェのパリ」の所感から。
19世紀末から20世紀初頭のパリを撮影したウジェーヌ・アジェの写真集『ATGET PARIS』。A5判とコンパクトながら780ページに八百余点もの甚大な写真が掲載されたその本は厚さが6センチにもなるという。ふとした思いつきで分厚い写真集を抱えてパリを歩き回る著者の行動力に驚かされます。ただしアジェの撮影ポイントを正確にトレースするのが目的ではなく、あくまで街歩きを楽しむことが目的。アジェの写真集はただそのための「きっかけ」に過ぎない。実際著者がパリを歩き回る様子が克明に記されているけれどパリの街を知らない人にはその内容はよく分からないし、掲載されているアジェの写真も小さいうえに解像度が粗い。著者はこの本でパリの街やアジェの写真そのものの魅力を伝えようとするのではなく、「きっかけ」としての写真の魅力を伝えようとしていたのではないか。写真には絵画のように写真そのものが放つ個性の魅力のほかにも、このように人を行動へと駆り立てる「きっかけ」としての魅力もあることに今回気付かされました。
一方の「バウハウスと茶の湯」は夫と共にバウハウスで学んだ著者のバウハウスでの学習の様子を記した体験記。タイトルから茶道に関する内容なのかと思いきや、あくまでバウハウスでの学習記録がメインとなっています。また、写真表現史という授業から写真に関する記述があるかと思いきや、それもない。時代的にはアジェよりも後年でカラー写真も多く掲載されています。掲載されている写真はほとんどが夫の山脇巌氏が撮影したものですが彼はあくまで建築家であって写真家ではない。バウハウスでの学習風景や制作した作品の写真は「アジェのパリ」と同じく写真そのものの表現や魅力を伝えるものではなく、あくまで被写体の情報を伝えるものとしてその役割を果たしています。アジェの写真自体は写真家による「作品」なのですが、「アジェのパリ」では著者はその写真を「作品」としてではなく、あくまで「情報源」として扱っている。
...とここまで書いてきて、ようやくこの二冊の本の共通点が見えてきた気がしました。二冊の本の共通点、というより、二冊の本を通して感じたこと、と言うほうが正確かもしれません。通常写真を写真として認識するとき、どうしても写真そのもの個性、例えば解像度や色の具合などのプロパティでその魅力を見いだそうとします。しかしこの二冊の本ではその写真のプロパティではなく、写真の存在そのものが魅力を発している気がするのです。これまで僕は写真はその撮り方だけがその個性、表現、魅力を創りだすものだと思っていました。しかし写真は見る人によってもそれらは創り出せるのだと。このことは何も写真だけに限らず絵画や彫刻、デザインなど全ての表現物に言えることだと思うのですがそれを言い出したら混沌としてしまう。ただ僕はこの二冊の本を読んで、写真は撮るだけでなく、見ることについてもいろいろな幅があることを感じたのです。見る人の見方によっては画質の悪い写真でも「良い写真」になる。多大な影響を与えることがある。
「良い写真」は撮り手である写真家だけでなく、鑑賞者の手(目)によっても生まれるものなんでしょうね。
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後期レポートへと続く。
tadaoh
このレポートを書いた時点では、2冊とも図書館で借りたのだけど。
それからおよそ2年後。
ブックオフで「バウハウスと茶の湯」を発見。
程度も良く、定価の半額だったので思わず購入。
ライフライブラリーが充実していくなあ。