「効率化」という罠

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[自然には効率化されたものしかない。自然は効率化の最上のお手本である]


かつてある記事を書いたとき、僕を評するコメントとして、


  「あらゆるものが理性で説明可能であると思っている」


と言われたことがあります。
そしてその代表例として、勝間和世さんをあげていました。
その人は彼女が大嫌いなそうです。

そういわれたときには勝間和世さんを名前くらいしか聞いたことがなく、
どういう人なのか知らなかったのでピンと来なかった。


今日ふと、テレビで金スマをみていると、
その勝間和世さんが特集されていました。
すぐれたエコノミストであり、
「日本で一番デキル女」であり、「日本で一番優れた母親」とか。


...僕はどちらかといえば、好きかな。
好き、というより尊敬する、というか。
ワーキングマザーを持つ自分としては、共感するところも多い。
母親とは口やかましく、その口数だけ愛に溢れているものだ。
口うるさくいわれていた頃はそれを疎ましく思っていたものだけど、
今、遠く離れて暮らしていると、母の愛をひしひしと感じる。

勝間さんも僕も、ものごとを「あらゆるものが理性で説明可能である」とは思っていない。
むしろ、世の中には理性で説明できないものが多すぎるから、
少しでも整理して説明できるものを増やしたい、そして伝えたい。

...そう願っているだけなんだ。

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[人間だけが持っているもの。それが"非効率"である]


僕が今、現代社会の中で最も疑問視しているものの一つに「効率化」があります。
現代社会の歴史は効率化の歴史だとも言える。

勝間さんはその「効率化」の達人であるという。
彼女が有言実行している「効率化」そのものは素晴らしいと思います。
しかしそれを社会が安易に模倣しようとする風潮が僕には嘆かわしく思える。
安易に書籍化し、メディアで流通させる。
「効率化」までも大量生産しようとする。
マスプロ神話は崩壊しつつあるというのに。

「効率化」そのものに善悪はない。
効率化そのものは方法であり、ツールであり、
その価値や善悪はそれを行う人格に委ねられる。

勝間さんの「効率化」の成功は、彼女の人格によるものである。
三人の子どもと過ごす時間を作る。
家族と過ごす時間を第一と考え、
他の優先度の低い時間を整理して切り捨てていく。
彼女が優れているのは何が大切で、何が不要かを明確に把握していることではないか。

効率化とはとどのつまり、必要なものを残し、不要なものを捨てる。
その取捨選択である。
必要なものとそうでないものを正しく見わける力がついていないと、
大切なものまで捨ててしまう。
僕が「効率化」という行為について疑問を感じているのはその点である。

今の社会は大切なものを捨てすぎる。
道具に機能を委ねすぎて、自分自身で「工夫する」という幸福を自ら捨てている。
だから僕は大学におけるデザインの課題でも、
世の中を「便利にする」ためのものや仕組みは一つも提案しなかった。
今の世の中は便利さに溢れている。
その便利さが社会を堕落させている。

速い列車に乗ると、あっという間に遠くの目的地に到着できる。
しかしその途中の風景が記憶に残ることはない。
かつては程良い速さの中で車窓からの風景を眺める楽しさがあったが、
新幹線は時間と引き替えにその楽しみを奪ってしまった。
この上さらに巨費を投じてリニアモーターカーを導入するという。
そこに社会の幸福はあるのだろうか。
スピードとパワーに頼る社会に幸せはあるのだろうか。

くり返すが、「効率化」とは必要なものを残し、不要なものを捨てていく、
整理であり、取捨選択である。
重要なのは選択眼である。
僕はそれを理性のすべてでやれるとは思っていない。
むしろ第六感、いわゆるカンやセンスと呼ばれるもので行うほうが良いとさえ思っている。
理性でやる、ということは考えてやる、ということである。
考えるには時間がかかる。
考える速度を速くするのには限界がある。
感覚で判断できる方がスマートであり、スピーディーでもある。

じゃあ、なぜいつも文章をだらだら書いているかというと、
正しい感覚は理性の反復からでしか到達できない、と思っているからである。
同じことを何度も何度もくり返して「身体」にしみこませる。
それが正しい感覚を身につける、ということではないだろうか。

スポーツをやるときに、最初は頭で考えなければできない動きが、
何度も練習することで、意識しなくても操作できるようになるのと同じである。

また正しい感覚を身につけたとしても、
感覚は間が空くと鈍る。使わなければ鈍る。その状況に慣れきると鈍る。
だから時々理性に戻ってまた整理する。考える。
それが感覚を鍛える、ということではないだろうか。


くり返すが、効率化そのものには価値がない。
効率化することで達成できることこそが大切なのである。
効率化に囚われすぎると本当に大切なものまで切り捨ててしまう。

何が必要で、何が不要かは人それぞれである。
だから効率化の方法も人それぞれ、千差万別である。
だから僕は効率化のハウツー本など読まない。
複雑な整理術、なんてものはないのだから。
自分にとってなにが「よいもの」で、なにが「よくないもの」なのか。
その選択眼感覚を磨くものはハウツー本などではない。
正直な感覚で表現をした本をたくさん読むべきなのだ。

良いものは古から積み重ねられ、なんらかの形で残るものである。
なぜなら人は「良いもの」を残したい、と願う生きものだからである。

だから僕は過去から多くを学びたいと思うのである。
過去を学び、今を行動することで、未来を思うことができる。


「効率化」という言葉に惑わされるな。
「効率化」がモダンな時代は20世紀で終わったのだから。