ハムレット【シェイクスピア】

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シェイクスピア四大悲劇の一つ。

マクベス」に引き続いて読んだ。


兄である王を奸計により毒殺して王座に就き、兄の妻を妃に娶った叔父。

先王の息子、ハムレットはその真実を知ったその日から狂気を装い、
復讐の機会を待つ。

復讐心、懐疑心、臆病心に日夜苦しみながら、
装った狂気が行き着く先は破滅しかなかった...


弟が兄である王を殺して王座に就き、兄の妻を自分のものにする、
というテーマは「サロメ」と同じですが、大元はギリシャやローマ神話なのだろうか。


権力が人を狂わせる。
もっとも大事なものを見失わせる。
欲に溺れさせる。


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[ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」](画像は大塚国際美術館の陶板画)


狂気に走った(...と思った)恋人と、その恋人に父親を殺されたことにより、
みずからも狂気に走ったオフィーリア。

あるとき、水辺の木に登ろうとしたところを足を滑らせ、水の中に落ちてしまう。

事故なのか、はたまた自ら身を投げたのか。
いずれにせよ、抗うことの出来ない運命に翻弄されたがゆえの悲劇。


それでもこの物語は運命に流されてはいけない、
どんなに運命が過酷でも、それに抗い、自らの手で運命を切り開くことを
説く物語であるように僕には思える。


この辛い人生の坂道を、不平たらたら、汗水たらしてのぼって行くのも、なんのことはない、ただ死後に一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの、一人としてもどってきたためしのない未知の世界、心の鈍るのも当然、見たこともない他国で知らぬ苦労をするよりは、慣れたこの世の煩いに、こづかれていたほうがまだましという気にもなろう。こうして反省というやつが、いつも人を臆病にしてしまう。(P85 第三幕第一場)

どんな生き方をしても、すべての人は死に向かう。
反省をすればするほど、死の恐怖が身近になる。

それでもより良く生きるために人は反省を繰り返さねばならない。


劇というものは、いわば、自然に向かって鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉りだし、時代の様相を浮かびあがらせる・・・(P92 第三幕第二場)

それはただの鏡ではない。
劇というものは、映したいものだけを映し、映したくないものは映さない
人間にとって都合の良い鏡である。


死んで二月もたって、まだ忘れられずにいるようなお方があるというのか?とすると、立派な人の思い出は死後も半年くらいはもつものとみえる。でもそのあとは、お寺の一つ二つ建てておかなくてはなるまいな。さもなければ、あの遊び場の張り子の馬同様、とてももちはしまい。墓碑銘には流行唄そのまま、こう書いておいたらいい。「惜しや!惜しや!張り子の馬も忘れられて」とな。(P97 第三幕第二場)
人の思いは所詮、記憶の奴隷、生まれ出するときはいかに激しくとも、ながらえる力はおぼつかない。今は枝にしがみついている未熟の木の実も、熟せばおのずと地に落ちよう。みずから心に課した負い目とあらば、取り立てを忘れるのも無理からぬこと。情に激して誓いし言葉の数々、冷めれば忘られもしよう。悲しきにつけ、嬉しきにつけ、激情ひとたび去らば、思いを実行に移す気力を失おう。歓楽きわまらば悲しみふかし。ささいなことから悲喜たちどころに所を変える。人の世は無常。さすれば、男女の情も、時のまにまに、移ろい行けばとて、なんの不思議があろうか。情が時を制するか、時が情を制するか、どちらともにわかには決められまい。よくあること、位高きものも一度つまずかば、身内も背き去り、賤しきものも青雲に乗らば、きのうの敵も来たり投ず。人情も時世時節勝てぬ証拠。富めるものには友にことかかぬが、貧しくして、友の不実を試みるは、相手をたちまち敵に追いやるがごとし。さて、つまりはこうなろうか、人の志と運命とはまったく相反して動き、思い定めしことも、かならず覆され、思いはわがものなれど、結果はつねに手のとどかぬところに現れる、と-(P101 第三幕第二場)

どんな美しい思い出も、どんな屈辱的な記憶も、時と共に薄れゆく。
そのこと自体が無性に悲しいがゆえに人は記憶を形に残そうとする。


言葉は空に迷い、思いは地に沈む。心をともなわぬ言葉が、どうして天にとどこうぞ。(P115 第三幕第二場)

迷っているときの言葉ほど、説得力のないものはない。
しかし決断に至る過程において、迷いは必定であり、
迷いの果てに悟りがあり、悟りの言葉が人の心を動かす。


一体どのような悪魔に魅入られて、こうしためくらにもひとしい所行を?感情がなくても目があれば、目は見えずとも、感情があれば、手や目がなくても、耳があれば、いえ、何はなくとも真偽を嗅ぎわける鼻さえあれば、たとえ狂っていようと、この五感のひとかけらでも残っていれば、こうしたばかなまねが出来るわけがないのだ。(P119 第三幕第四場)

正しい判断、というものは頭の中だけでするものではない。
五感が正しい情報を入力することにより、正しい判断が出力出来るのである。


習慣という怪物は、どのような悪事にもたちまち人を無感覚にさせてしまうが、半面それは天使の役割もする。始終、良い行いをなさるようお心がけになれば、はじめは慣れぬ借り着も、いつかは身についた普段着同様、おいおいお肌に慣れてくるものです。今宵一夜をおつつしみなさい。あすの夜にはもっと楽になりましょう。その次はさらにたやすく。こうして習いは性となり、人は、知らぬまに、悪魔を手なずけられもしようし、それを追いだしてしまうことも出来る。(P123 第三幕第四場)

「何かを身につける」というのは単に情報を頭の中に入れて理解することではない。
それは反復により無意識下に刻み込むことである。
反復は学習の基本であり、反復のない学習などない。


寝て食うだけ、生涯それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ?畜生とどこが違う。神から授かったこの窮まりない理性の力。それあるがため、うしろを見、さきを見とおし、きっぱりした行動がとれる。この能力、神に近き頭脳のひらめき、それを使うな、かびでもはやせ。まさか、それが神意ではあるまい。それを、おれは、畜生の性なしか、それとも、腰のきまらぬ小心者のつね、あまり物事を先の先まで考えすぎて身うごき出来ぬのか-ふむ、思慮というやつは、四分の一が智慧で、あとの四分の三は卑怯者-おれにもわからない、「これだけはやってのけねば」と、ただ口さきで言い暮らしている自分の気持ちが。(P136 第四幕第四場)

どれだけ理性で先の先まで考えても、未来を読むことなど出来はしない。
臆病心は生物としての本能であるが、それを乗り越えなければ「人間」にはなれない。


なすべきことは、思いたったときに、してしまうにかぎる。その一旦「思いたった」気持ちという奴がすでに曲者、あてにはならぬのだ。さらでも、世間にはうるさい口というものがある。おせっかいな手があり、思いもかけぬ横槍が出る。気が変わったり、遅れがちになったりする。そのため「なすべきこと」とはいうものの、所詮は、血を涸らす溜息の連発に終わるだけ、それで気は楽になろうが、いずれは身を損なう元となろう。(P156 第四幕第七場)

「思いたったが吉日」
しかし迷いは誰にでもある。
本当にやるべきだ、という心の決断をどれだけ見逃さないか。
そこに行動する人としない人の差がある。


乳を吸うにも、乳房にお辞儀してかかるという手あいだ。ああいうのが-いや、いいかげんな末世の風潮に甘やかされたおっちょこちょいの雲雀連中は、ほかにもたくさんいるが-みんな時の花をかざしにし、お互い空世辞のやりとりに憂き身をやつし、そこから気のきいた、あぶくのような文句をおぼえてきて、物事を地道に考えようとする落ちついた苦労人たちの目をくらましている。だが、一吹き息を吹きかけてやれば、所詮はあぶくだ、いっぺんに飛んでしまうさ。(P184 第五幕第二場)

流行は現代の経済社会を生き抜くためには必要不可欠なものである。
しかし流行は変化するものであり、「流行」そのものは消えることはなくても、
その中身は常に入れ替わっている。

一方で、流行の先にずっと変わらないものもある。
それが「本質」と呼ばれるものであり、これは時代性に左右されない。
本質と流行とのバランスを考えること。
それが「今を生きる」ということではないだろうか。


さて。

あとは「リア王」と「オセロー」だな。
ここまで来たら、あと二つの悲劇も読んでおきたい。