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2010年3月22日

マクベス【シェイクスピア】

読書/ 文学

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シェイクスピア四大悲劇のうちの一つ。

じつは11世紀初頭に実在した同名のスコットランド王をモデルにしているんですね。
実際にこれほどの悪行を行ったかどうかは定かではないようですが、
このような形で後世後々まで語られていくことが、
マクベスにとって一番の悲劇のような気がしなくもない。


物語自体は一介の武将が妻と友に奸計をたくらみ、
王様や仲間を殺害し、自らが王となるが、
自らの悪行への悔いに苦しめられ、
ついには前王の息子をはじめとした自分が裏切った仲間たちに滅ぼされる、
といういたって単純な物語なわけですが。


この悲劇が時代を超えて語り継がれていくのはなぜだろう。
その鍵を探り、自分なりに考えて、自分なりの答えを出すことには
大きな意味があると思う。

たとえ孤独を好む性格であっても、多くの人と同じように、
自分というものをできるだけ多くの人に、社会の中に認めてもらいたい、
という願望があるから。



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ただ心配なのは、その御気質、事を手っとり早く運ぶには、人情という甘い乳がありすぎる、なるほど大望はおもちでしょう、野心も無いではない、でも、それを操る邪な心に欠けておいでだ、とてもほしがっていながら、どこまでもきれいごとでおすませになりたがる、ごまかしはいやだとおっしゃりながら、なんとしてでも勝ちたいという、解っております。グラミス殿、あなたのお心は、「ほしいなら、こうせねばならぬ」そう呼びかけてくるものに目を奪われ、どうしてもそれがほしいとおっしゃるのだ、そうして手をくだすのは恐ろしいが、といって、このまま引退れもせぬ、どうしてもそれだけはやってのけたい、とおっしゃるのだ。さあ、早く、ここへ、その耳に注ぎこんであげたい、私の魂を。この舌の力で追い払ってやる、運命が、魔性の力が、あなたの頭上にかぶせようとしている黄金の冠の邪魔になるものはなんであろうと。(第一幕第五場)

マクベスの心の中に生まれた微かな「闇」が記された手紙を読んだ際の妻の言。

人間は生まれながらにして善なる存在である、性善説を信じるならば。
マクベスも最初から極悪人だったわけではない。
そして誰にだって少なからず心の闇はある。
その闇を強大なものに育てるものは周囲の環境である。

持つべきものは良き親であり、良き友であり、良き妻である。
このうち親は選べないが、友と妻は自分で選ぶことのできるものである。
良い環境を選択することも良き人生を生きる上で大切な能力ではないだろうか。


やってしまって、それで事が済むものなら、早くやってしまったほうがよい。

案ずるより産むが易し、しかし言うは易く行うは難し。
だから人は迷う。

悪事でも好事でも、やってしまえば事は済む。
やらなければいつまで経っても事は済まぬ。
分かっていながら人はいつまでも迷う。
...そういう生きものだから。

迷わない人など、人間ではない。


偽りの心のたくらみは、偽りの顔で隠すしかない。

嘘は顔に出る、ということでしょうか。
嘘は嘘を呼ぶ。
一つ嘘をつけば、別の場所でまた嘘が一つ生まれる。
そうやって嘘は増殖していく。
偽りを重ねることは、はたして幸せなのだろうか。

とくにこのネット時代において、この「偽りの顔」を強く意識させられる。

僕はネットの匿名性、というものに強い疑問を持っています。

匿名でいる、ということは決して嘘をつく、ということではない。
しかし、アイデンティティを隠す、という点において
少なからず「真実を隠す」というイメージを僕は持ってしまう。
匿名の人と語るのを警戒する。

特定の集団内での統計的な傾向を知る情報として、
匿名性は非常に有効なものであるとは思う。
しかしアイデンティティの見えない匿名の言葉は、一般論でしかなくなる。
最初の入口で、浅い部分で情報として参考にするにはいいだろう。
しかし匿名の言葉では人間の深い部分へ行くことはできない。
だから僕は匿名の人と議論はしたくない。
浅い部分に終始してしまうから。

嘘と同じように、匿名性も増殖する。
ひとつ真実をぼかせば、別の真実をぼかしていかねばならない。
そんな状態で心の深い部分を語り合うことなどできはしない。

誤解しないでほしいのは、
匿名性を警戒しているからといって、
ネットで個人情報をさらけ出せ、といっているのではない、ということ。
安全なアイデンティティのアピールの仕方をもっと考えろ、ということ。

まだまだネットを現実からの逃避場所としている人が多いと思う。
とてももったいない気がする。

僕も人には面と向かって言えないことをネットに書くことがある。
しかしそれはあくまで心の中を整理する時間を稼ぐためであって、
いずれは現実の世界へと還元させたいと願っている。
だから基本的にネットのアイデンティティと、現実のアイデンティティとを区別しない。

このブログが僕を知らない人が僕を知るきっかけになってほしいし、
僕を知っている人にもっと自分を知ってもらうきっかけにもなってほしい。
2つのきっかけを別々に用意するのは面倒臭い。
アイデンティティは一つ。
しかしその見せ方は相手によって様々。
それが健全な自己アピール、健全なコミュニケーションというものではないだろうか。


悪を知らない人間が善人なのではない。
悪を知らなければ、善を意識することはできない。
悪を知らない人は、自らが悪行を行うことはないが、
悪に苦しめられている人を助けることはできない。

人を助けることができない人は、自分で生きていくことなどできない。
人は一人では生きられない動物だから。
お互いを助け合うことで人間社会は成り立っている。


正義とは悪を知らないことではない。
悪を知らない、純粋無垢な人間が正義の人なのではない。
正義とは、悪と善とのバランスにより、社会に安定と発展をもたらすものである。
そのためには悪がどのようなものかを知り、
それを行うと、他人にどのような迷惑をかけてしまうのかを知らねばならない。
そのためには少なからず人は悪行を犯さねばならない。
できるだけ小さい悪行で悪を知らねばならないのである。
それが「学ぶ」ということである。
学ぶことで人は成長する。

知識を詰め込むことが「学び」なのではない。
自分で考え、判断することを覚えるのが「学び」である。


僕たちの誰もがマクベスのようになる可能性がある。
そうならないために僕らは学ばなければならない。考えなければならない。
それはいつ時代も変わらない。

だからこの悲劇は語り継がれる。


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