薔薇の名前【ウンベルト・エーコ】

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中村先生の授業において、
象徴主義・神秘主義を習う過程で紹介された本。

イタリアの記号学哲学者、ウンベルト・エーコによる小説。

舞台は教皇と皇帝の二極体制下で権力と欲望が渦巻く中世イタリア。
世界中のあらゆる書物が収められた異形の文書館を持つベネディクト会修道院で
ヨハネの黙示録に沿って次々と起こる奇怪な殺人事件。
その事件を解決すべく派遣されたフランチェスコ会修道僧バスカヴィルのウィリアムと
その弟子、ベネディクト会見習い修道士メルクのアドソのコンビが事件に立ち向かう。
物語は年老いたアドソが当時を回想する形で語られてゆく。

二人のコンビが難事件を解決してゆく、と書くと、
あたかも名探偵ホームズとその助手ワトソンによる、
推理小説のごときイメージを浮かべてしまうけど、
ただの推理小説なら、上下巻で800ページにもわたる大作である必要もない。

この物語は、キリスト教の世界観を描いたものであり、
さらにその奥深くには宗教VS哲学、あるいは宗教VS科学の対決が描かれている。


宗教だけで世界は成り立たず、
さりとて科学だけでも世界は成り立たない。

目に見えるものと、目に見えないもの。
世界はこの2つで成り立っており、どちらか一方だけで成り立つものでもない。


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この本はあまりにも多くのことが示唆されている。
しかしそれゆえに混乱してしまう。

まず数多く登場する修道会の宗派や集団。

ベネディクト会、フランチェスコ会、ドミニコ会、クリュニー会、シトー会...
小さき兄弟会士(ミノリーテイ)、小兄弟派(フラティチェッリ)に
厳格主義派(スピリトゥアーリ)...
それぞれの宗派や集団がどのような背景で登場し、関連し合っているかが
分からないため物語の背景がなかなかよく理解できない。

そもそもベネディクト会の見習い僧であるアドソがなぜ、
フランチェスコ会のウィリアムの弟子となるのか。

神はたった一人なのに、なぜこうもさまざまな宗派が生まれるのか。
そして聖なる集団のはずなのに、どうしてその内部は汚れた欲望が渦巻くのか。
この本を読んでいると、何が正義で何が悪か、何が正統でなにが異端か、
集合知と集合愚の差異がどこにあるのか分からなくなる。


...しかしそれでもこの本は多くのことを教えてくれる。

以下は本分引用につきネタバレ的な部分があるのでご注意を。


あらゆる芸術のなかでも建築は、太古の人びとがコスモスと名づけた宇宙の秩序を最も果敢におのれのリズムのうちに取り入れて再創造することをめざすものであり、いわば、おのれの四肢の完璧な均衡の上に燦然と輝いて立ちあがる巨大な生き物にも似て、それが造られることをめざすものであったから。そしてアウグスティーヌスの言うごとくに、数と重さと大きさとにおいて万物を決定した、われらが創造者こそ、讃えられてあれ。(上巻P45 第一日 一時課)

エーコの建築学教授としての側面が伺える記述。
建築は小宇宙の再構築を目指すもの、というところに建築の崇高な目的がある。

文書館のある迷宮「異形の建物」も興味深い。

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愛とは何か?この世には、人間であれ、悪魔であれ、他の何であれ、愛ほどに疑わしいものは存在しない、とわたしは思っている。なぜなら、他の何物とも比べようがなく、人間の魂の奥深くにまで、これは入り込んでくるから。愛ほど激しく人の心を奪い、人の心に軛をつけるものは存在しない。それゆえに魂を律するための武器を持たなければ、愛ゆえにわたしたちの魂はたちまちに崩壊へ導かれるであろう。(上巻P370 第三日 終課の後)

一見、聖職者らしからぬ愛への疑問の言葉。
しかし、よくよく考えてみればもっともな教訓のようにも思える。

愛そのものは善であっても、
それを眺める者の心が歪んでいれば、愛は害悪にもなりうる。


「よくあることだよ。書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。...」...(中略)...そのときまで書物はみな、人間のことであれ、神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものばかりと思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語り合っているみたいなことが、私にもわかった。(下巻P52 第四日 三時課)

これだけインターネットが普及し、電子書籍が出回ろうとする時代にあっても、
本はなくならない。
なぜならこれらのデジタルメディアには宇宙がないからであり、
本には宇宙があるから。

インターネットはいわばブラックホールのようなものではないだろうか。
器を持たず、すべてを吸い尽くして結局は後には何も残らない。
秩序という制限を課し、有限という器を持つことで本は輝く星となる。


「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」「純粋さの中でも何が、とりわけ、あなたに恐怖を抱かせるのですか?」私はたずねた。「性急な点だ」ウィリアムが答えた。(下巻P208 第五日 九時課)

純粋さそのものに善悪はない。
純粋であることが善で、不純なものが悪、というわけでもない。
純粋であることは、理解しやすいが、扱いやすくはない。
純粋であるがゆえに周囲が見えず、対象そのものだけを見つめようとする。

だから純粋さは性急であり、恐れるべき存在なのだろうか。


反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人が出るように。恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちより先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。ホルヘが悪魔の所業に及んだのは、淫らなまでにおのれの真理を溺愛して、虚偽を破壊するためには何をしても構わない、と考えたからだ。ホルヘがアリストテレスの『第二部』を恐れたのは、そのなかで、たぶん、わたしたちがおのれの幻想の虜にならないようにするためには、真理と名のつく相貌を一つ一つ歪めてみるように、真剣に説かれていたからであろう。おそらく、人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせることによって、「真理が笑うようにさせること」であろう。なぜなら、真理はに対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから。(下巻P370 第七日 深夜課)

反対分子はいつだって自分の外ではなく、自分の中にある。

純粋であれば何もかもが許されるわけではない。
無知がゆえに招いてしまう悪、というものもある。
だから人間には叡智が必要なのである。


「わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから。わたしにわからなかったのは記号と記号とのあいだの関係性だった。一連の犯行を支えているかに見えた『黙示録』の図式を追って、わたしはホルヘにまで辿り着いたが、それは偶然の一致に過ぎなかった。すべての犯罪に一人の犯人がいるものと思いこんで、わたしはホルヘにまで辿り着いたのだが、それぞれの犯罪には結局、別の犯人がいるか、誰もいないことを、発見したのだった。邪悪な知能に長けた者の企みを追って、わたしはホルヘにまで辿り着いたが、そこには何の企みもなかった。...(中略)...見せかけの秩序を追いながら、本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであったのに」「誤った秩序を想像したのかもしれませんが、やはり発見なさったものがあったではありませんか・・・」(下巻P371 第七日 深夜課)

記号は目に見えるもの。
しかし記号を見るだけでは真理は見えない。
記号と記号との間にある関係性を意識しなければ全ては見えてこない。
そこにはハードとソフトの関係性をも見出せる。

しかし関係性というものは見えないだけに無限のバリエーションがある。
それだけに関係性の「正しさ」というものが認識しにくいのかもしれない。

それでも僕らは「正しい関係」というものを自信を持って見つけ出さなければならない。


この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない。<過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ。>(下巻P383 最後の紙片)

この物語の一番の謎。


  「なぜ、この物語のタイトルが『薔薇の名前』なのだろうか?」


物語の最後の最後で登場する「薔薇の名前」。

薔薇そのものははかなく消えてゆき、残るのは書物上に記されたその名前のみ。
世のはかなさを惜しむために、人は書物に名前を残すのだろうか。

しかしどんなに名前を記憶しても、そこに実体はない。
そのことに気づくとき、切なさはなおさら強く募るではないのだろうか。


書物は偉大な存在なのだろうか。
それとも愚かな存在なのだろうか。


...前者だと信じたい。


映像化されてます。

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ショーン・コネリーがウィリアムらしい。

文書館の「異形の建物」は見てみたいなあ。