「アルケミスト」でパウロ・コエーリョに出会いました。
んで、ブックオフで見つけたのがこの本。
同じ日々の繰り返しに絶望したベロニカはある日自殺を試みる。
かろうじて一命をとりとめたものの心臓に疾患を残し、
なぜか精神病院でその日々を過ごすことになるのだが...
精神の狂気とはなにか。
「普通」とは何か。
「普通」は不幸なのか。
"貯めるだけの貯水池にならず、溢れる噴水になりなさい"わたしはずっと(この詩を詠んだ)彼が間違ってると思ってたの。愛する者たちのいる場所まで洪水にしてしまって、わたしたちの愛と興味で溺れさせてしまうかもしれないから、溢れさせるのは危険だと。わたしは今までずっと貯水池であろうとしたの。自分のうちなる壁を絶対に越えずに。それから、わたしは理解できない理由で、パニックの発作に襲われるようになったの。ずっと自分がなりたくないと思ってきたような人間になっていたの。溢れてしまう噴水になり、周りのものを全て、水浸しにしてしまったの。その結果が、ヴィレット(病院)への入院だったわ。
人間以外の生物は通常自分の実力の100%でしか生きられない。
100%以下でもなく、100%以上でもない。
しかし人間だけは、100%以下の実力で生きることもできれば、
100%以上の実力で生きることもできる。
そしてその生き方の選択はその人自身で行われる。
しかし幸せな人はたいてい前者の選択をした人で、
不幸な人は後者の選択をした人である。
若さと美貌、素敵なボーイフレンド、愛情溢れる家族、堅実な仕事...
ベロニカは全てを手にしていた。
しかし彼女は幸せではなかった。
同じ日々の繰り返しに絶望した。
しかし、同じ日々の繰り返しにしたのは他の誰でもない、彼女自身だった。
多くの人は言うだろう。
「100%以上の実力生きるなんて、ごくわずかの選ばれし者だけだ」
しかし実際は全ての人に選ぶ権利は持っている。
程度の差こそあれ。
そしてそれこそが人間だけに与えられた叡智なのだ。
人間も生き物だから、自らを守ろうとする本能を持っている。
その本能が100%ぴったりで生きようとさせる。
一方人間だけが持つ理性がそのバランスを崩そうとする。
一度バランスを崩し、平衡を保とうとするその力が、人間の知性なのだ。
もちろん過度な無理は自滅を招くけれど、
過剰な自己防衛もやがて自己を蝕んでいく。
筋肉が実力以上の負荷を与えることでパワーアップしていくように、
人間自身にも100%以上の負荷を与えることで成長していく。
それこそ人間の健全な成長の姿であり、幸せになるための道だ。
自分の不遇を、他人や環境など自己の外に決めている限り、
人は幸せにはなれない。
というより、自ら不幸の道を選択しているのだ。
そのことに気付かないことが、人間の弱さなのだ。
わざわざ精神病院に入るまでもなく、うつ病になるまでもなく、
ちょっと考え方を変えてみるだけで、人はこのことに気づくことができるはず。
やたらに人に迷惑をかけるのは良くないけれど、
世の中人それぞれなので、自分の信念を押し通そうとすれば、
どんなに人に迷惑をかけないよう細心の注意を払っても、
それに賛同する人もいれば、迷惑に思う人もいる。
だったら自分のやりたいようにやろうじゃないか。
賛同してくれる人には精一杯感謝の意を表し、
迷惑に思う人には、精一杯説得の意を表し、
それでも受け入れてくれないならば、
けしてその人を否定したり、責めたりせず、そっとしておこう。
「そういう人もいるのだと」。
それでも僕らは友だちになれる。
家族になれる。
仲間になれる。
だって、それが人間に与えられた可能性なのだから。
普通さというのは、ただ一般論の問題だという結論に達している。それは大勢の人がそのことを正しいと思えば、それが正しくなってしまうってことだ。
普通、というのは他人と上手くやっていくための「相対的な目安」でしかない。
そこを「絶対的な目安」などとは決して勘違いしてはならない。
その勘違いこそが「狂気」なのだから。
マジョリティが正しく、マイノリティが間違っているわけではない。
人は他人と違って当然である。
また他人と同じなのも当然である。
人はさまざまな個性や可能性を持っているのだから。
同じものや違うものがぶつかりあうのは至極自然なことなのだから。
同じ人間でさえ、時の経過と共に変わっていくものなのだから。
自己を越えて世界を共有するために「普通」がある。
決して世界を真っ平らにするためのものではない。
映像化されてるみたいです。