同級生がくれた本。
出版・社会思想社、初版1965年。
もらった本は1998年の第19刷版。
かなりのロングセラーだったようですが、現在はほぼ絶版状態。
古い本だけど、かなり濃い。
1年生のときにデザイン史の授業を受けたけれど、
この本はそれを補って余りある。
自分がクラシカルに固執するのは単に懐古主義だからではない。
別に過去を知らずとも、新しいものは作れるのかもしれない。
新しい、ということはただそれだけで価値がある。
しかし、ややもすればその価値だけに依存しがちでもある。
そして、新しさを失ったとき、その価値も消えてしまうのである。
新しいものが新しいものでなくなったとき、
それが生き残ってゆくには、新しいだけでない、ずっと残っていく価値、
「本質」が芽生えていなければならないのである。
今を生きる自分が過去のものと出会うとき、
その過去は本質を備えているが故に生き残った良質なものたちである。
だから人はクラシカルを学ぶべきである。
故きを温めて新しきを知れ。
「モダン・デザインの源流」として登場するのが、1851年にロンドンで開催された、
第1回万国博覧会の会場として建設された「水晶宮(クリスタルパレス)」ある。
[水晶宮の外観](出典:Wikipedia)
[水晶宮の内部の様子](出典:Wikipedia)
美大生ならば「アート」と「デザイン」について、一度は議論するところだろう。
しかしアートにおいては近代アートが16世紀のルネサンスに端を発し、
それ以前にも中世芸術、古代芸術と長い歴史を擁しているのに対し、
デザインは20世紀の初めに技術の発展に伴い、「もの」の大量生産と共に
本格的にはじまったもので、せいぜい100年程度の歴史しかない。
しかし、そのわずか100年ほどの間で、
過去二千年にもわたる生産活動を凌駕するほどのものを人類は生み出すようになった。
そのあまりの「急激さ」が人類に栄華をもたらす一方で、弊害をも生み出した。
だから人類は技術とデザインについて、慎重にならなければならないのである。
本書では、アール・ヌーヴォーについては詳しく書かれているけれど、
アール・デコについてはほとんど書かれていない。
この頃はまだアール・デコについてはほとんど認識されていなかったのだろうか。
アール・ヌーヴォーをパリにもたらしたのはヴァン・デ・ヴェルデであるが、
彼は後にグロピウスにバウハウスを託した人でもある。
ある意味、ヴァン・デ・ヴェルデこそデザイン草創期のキーマンなのかもしれない。
アール・ヌーヴォーの代表といえば、ギマールの地下鉄入口。
[エクトール・ギマール、地下鉄の入口(1889~1904年)](出典:Wikipedia)
このアール・ヌーヴォーを端に発し、ヨーロッパ各地にデザイン運動が展開した。
オーストリアでは、クリムト、オットー・ワグナーらによるウィーン分離派(ゼツェッション)が。
ロシアでは構成主義が。
[ナウム・ガボ、ロッテルダムのモニュメント(1954-57)]
イタリアでは未来派が。
このフォルム、ガンダムの「ギャン」に似ているな、と思うのは僕だけだろうか...
(出典不詳)
こうしてみると娯楽と芸術は紙一重、密接につながっているものなんだな、と。
ドイツではヴァン・デ・ヴェルデからグロピウスへとバウハウスが託される。
(出典不詳)
しかしナチなどのファシズムの台頭により、これらのデザイン運動は弾圧され、
活動の場は新天地、アメリカへ。
しかしその流れの前に、ライトという巨匠が燦然と存在し、
ヨーロッパへ強烈な影響を与えていた。
[フランク・ロイド・ライト、ジョンソンワックス社(1949)
一方で北欧では距離的に離れているせいか、アアルトを中心に独自路線を歩む。
[アルヴァ・アアルト、ニューヨーク万国博覧会フィンランド館(1939)]
そして世界は、デザインはボーダレスへ。
しかしそれは地域性や、環境性を無視したものへと向かう、というものではない。
言葉の境界ではなく、感覚の境界へ。