自分が今、建築的に一番興味がある国はスペイン。
スペインには魅力的な建築家が多い。
しかし。
ブルネレスキ、ネルヴィ、ピアノ、...そしてスカルパ。
イタリアもなかなか。
今回はスカルパに注目。
最近知ったばかりでまだ彼の建築をよく知らないけど。
今回はキャンデラの作品集も手がけた齋藤裕氏によるTOTO出版の作品集と、
a+uの1985年10月臨時増刊号として刊行された作品集の2冊を借りた。
「建築の詩人」とはどういうことなのだろう...
彼の建築はまだよく分からないけど、
ブリオンの墓とオリベッティのショールームがすごい印象に残った。
なぜブリオンの墓は墓碑にアーチがかかっているのだろう。
なぜオリベッティのショールームの階段は一段一段離れているのだろう。
豪奢でもなく、シンプルモダンでもなく。
どこか桃源郷的な雰囲気を感じる。
その点ではダニ・カラヴァンやイサム・ノグチと似ている気もしなくもない。
彼らは建築家ではなく、彫刻家だけど。
mixiのコミュニティで「建築と芸術は別物なのか?」というトピックが立ってました。
建築に興味ある多くの人の関心事らしく、賛否両論多数の意見が述べられてました。
普段はROMなのだけど、思わず書き込んだ。
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建築を学ぶ学生です。
広辞苑には...
【芸術】
一定の材料・技術・様式・を駆使して、美的価値を創造しようとする
人間の活動およびその所産。
とあります。
広辞苑を全面的に信用するわけでもないですが、
自分の理性で考えてみてもこの芸術の定義はあながちはずれてないと思う。
とすれば、やはり建築は芸術性を「含む」と思います。
建築=芸術でも、建築≠芸術でもなく、
建築∋芸術(芸術は建築の要素)、もしくは建築⊃芸術(芸術は建築の一部)
なのではないでしょうか。
建築に美的価値を求める人なら、建築は芸術だと言えるし、
求めない人には、建築は芸術ではない、ということでは?
自分は...前者でありたいと思っています。
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正直建築に芸術性は存在するか、なんて愚問だと思う。
建築に芸術性が存在するからこそ、僕は建築に夢を見る。
スカルパのブリオンの墓を見て自分も建築で自分の世界を描きたいと思う。
ブリオンの墓は、ブリオンの世界であると同時にスカルパの世界でもある。
しかし学びはじめの身であってさえ、
建築の現実の厳しさも見えはじめているのも事実。
建築家として厳しい現状に身をさらされ続ければ、
夢もいつかは幻となってしまうのだろうか、という不安もなくはない。
思った以上に厳しい道が僕をアンニュイにさせる。
進むべき道は決まったはずなのに、部屋を牢獄にして僕を閉じこめる。
それでも僕は建築に夢を描き続ける。
あせらず、ゆっくり、自分のペースで。
nick
大学の建築を出て建築関係の会社に就職した友人は
最近会社を辞めてしまいました。
問題は色々あるようですが
激務(終電、徹夜あたりまえ)
なのに給料が安い(残業代なし)
といった状態であったらしいです。もちろんそれらの問題が
第一でしょうが、もう一つ
根本的な問題があったようで、
それは建築の芸術性という問題らしいです。
彼は建築に芸術性を
持たせた仕事がしたくて
設計を志したようでしたが、
実際、世にある建築の大多数は
芸術性などとは関係なく、
機能性、量産性、安価性、
などが優先されるのが
現状で、そのために
仕事がおもしろくない
というのが根本に
あったようです。
建築に芸術性を
持たせるような仕事がしたい
場合は、明らかに需要が減ります。食えないという状況が
そこにはあります。
そんな理由もあって
その友人は、アトリエ系の
建築設計事務所にも入る
決心がつかなかったようです。
tadaoh
nickさん >
毎度現実の厳しさを伝えてくれるコメントありがとうございます。
しかし人に諭されて止めるような理想ならば、所詮その程度の志。
広い世界、建築に芸術を求める人もいれば、求めない人もいるでしょう。
建築に芸術を求めてなんかいられない厳しい現実があるのも確かでしょう。
しかし需要があるから建築に芸術を求めるのではありません。
僕自身必要だと思うから、あってほしいと思うから求めるのです。
厳しい現実を乗り越えるために必要なエネルギー、「好き」という気持ちを貯めるために今僕は大学で学んでいます。
そしてそのためには建築に芸術性を求める必要があるのです。
状況として建築に芸術性があるかどうかを論ずるのではなく、
希望として建築に芸術性があるべきかどうかを論じたいのです。