失われた薔薇【セルダル・オズカン】

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中村先生の授業で紹介された本。
神秘主義を説明する本として紹介されてました。

この本と並行して「ソフィーの世界」を読んでいたのですが、
ちょうど「失われた薔薇」を読み終わった直後に
ギリシャの三賢人(ソクラテス、プラトン、アリストテレス)の後登場した
新プラトン主義のプロティノスによる神秘主義の部分を読んだのです。

なんたるセレンディピティ!
おかげで神秘主義が少し理解できた気がします。


美しく才気溢れるセレブな女性ダイアナは周囲の称賛を受けながらも
どこか満たされない日々を送る。
自信のなさと堅実な道の選択から本当は小説家になりたいのに、
法律家の道を選ぼうとしていた。

そんな中、彼女の最大の理解者である母が亡くなってしまう。
死に際に母が娘に残した言葉は彼女をさらなる悲しみへと突き落とす。

なんとダイアナには双子の妹メアリがいて、
幼い頃に死んだはずの父の元で育っている。
母の病気を知った父はメアリに母に連絡先を教え、
メアリは母へ4通の手紙を出す。
どうやらメアリは幸せではないようだ。
心配した母はダイアナにメアリを探すように、という遺言を残して逝った。

ダイアナは最初はそんな母親の遺言を無視していたが、
やがてメアリが立ち寄ったと思われるイスタンブールを訪れる決心をする。
そこでダイアナを待ち受けていたものは...


この本はあくまである母娘の物語であって、神秘主義の解説本ではありません。
本文中に「神秘主義」の文字は一切出てこないし、
「ソフィーの世界」を併読していなければ、この本を読んだだけでは
神秘主義を意識することはないでしょう。

それでもこの本を読み終わると、なにか満たされた気になる。
それは僕だけじゃない。

世界30カ国で翻訳されて世界中で読まれていることを考えれば、
神秘主義は今の世界に必要な「考え方」だと言えます。


人は一生自分のエゴから抜け出ることはできない。
しかしそのエゴを殺さなければ、人は誰とも分かち合えない。

エゴを殺すことで人は真に自由になれる。
人は神になれる。神と一体化する。


「エゴを殺す」ということはどういうことなのだろうか。

エゴイストである僕には非常に抵抗を感じる言葉だ。

「人生の価値を一番良く知っているのは誰だと思いますか、ダイアナ?」 ダイアナは足を止めたが、振り向きはしなかった。「死を体験したことがある者なのですよ」ゼイネップ・ハヌムは続けた。ダイアナはテーブルに戻った。「お願い、教えてください。何をしろとおっしゃるのですか?」「たった一つのことです。あなたのなかにある自我を、薔薇の声など聞こえるはずがないと信じている自我を殺しなさい。その死だけが、薔薇の声を聞くことができる人生を与えてくれるのです。それにわたしがこんなことを求めるのは、あなたが教わりたいと言ったからなのですよ」

人は学ぶことで、自分の可能性を広げることができる。
誰しもそう思うから学ぶ。僕もそうだ。

しかし一方で学ぶことは自らを縛る鎖にもなっていたのだ。
学んでいないことについては自分はなにもできない。
人は次第にそう思うようになる。
そして知らず知らずに自らの可能性を縮めてさえいたのだ!

積み重ねた経験から未知の経験に対して「できない」と頭の中で判断し、
未知を未知のままにする。
そうして未知の領域は限りなく広がってゆく。

そんな負の連鎖を断ち切るために必要なことが「自我を殺す」ことなのだ。

今まで積み重ねてきたものを捨て、一端自分をまっさらにする。
それはとても勇気のいることだ。
今まで積み重ねてきたものを捨てるなんて、
じゃあこれまでしてきた努力はなんだったんだ?...そう言いたくもなる。

しかし人は何度でも学ぶことができる。
そして一度学んだ本当に大切なことは意識下から消えても、
潜在意識にしっかり刻まれるものだ。
それは「身体で覚える」という表現に置き換えられるものかもしれない。

だから積み重ねてきた経験を捨てることを懼れることはない。
それは自分の誇りを捨てることではない。


「ソフィーの世界」では神秘主義を以下のように解説しています。

これは、ぼくたちがふつう「わたし」と呼ぶものがぼくたちの本来のわたしではなくなる、ということだ。ほんの短い瞬間、わたしがもっと大きなわたしを体験する、ということだ。多くの神秘家はそれを「神」と呼んだ。「世界霊魂」とか「森羅万象」とか「宇宙」とか名づける人びともいる。神秘家はそういうものと溶けあうなかで自分を失う体験をする。雨粒が海に混ざれば、自分を失うように、神のなかに消えてしまい、われを失うんだ。あるインドの神秘家は、「わたしだった時、神はいなかった。今は神がいて、わたしはもういない」と言い表している。キリスト教の神秘家、アンゲルス・シレジウスは、「水滴は海にいたると海になる。魂は神に受けいれられると神になる」と言っている。たぶんきみは、自分を失うなんて、うれしくもなんともない、と思っているね。その気持ちはわかるよ、ソフィー。でも、きみが失うものは、きみが手に入れるものとはくらべものにならないほどちっぽけなのだ。きみは、今この瞬間にもっている形のきみ自身は失うが、同時にきみは本当は何かとほうもなく大きなものだということを、まざまざと理解するんだ。きみは全宇宙になる。ソフィー・アムンセンとしてのきみ自身は失うことになるけれど、この「ふだんのわたし」はいずれいつかは失わなくてはならない、と考えれば気が楽になるんじゃないかな。この、きみ自身を解放できた時に初めて体験できる、きみの本当のわたしを、神秘家は永遠に燃える不思議な炎ととらえるのだ。

僕は本来、エゴイストであると同時にシニカルなリアリストでもある。

別に僕は、世俗を捨てたいわけじゃない(その願望は全くないわけじゃないけど)。
救われない世界に絶望して、どこかの愚かな芸能人が麻薬でトリップするように
現実から逃げたいわけじゃない。

ただ、「より良く」生きたいだけ。


神秘主義を疑うことなく、頭から賛同する気には今はどうしてもなれない。
しかし、まったく不要なものとも思えない。

自分を殺すことで世界が広がることはなんとなくわかる気がする。
しかしそこで失う「らしさ」は本当に失ってもいいものなのだろうか。
たとえいずれは消えゆくものであっても、そんなに簡単に捨ててもいいのだろうか。


世界を広げる「脱自我」と自らを縛る「アイデンティティ」。
相反する二つの要素を僕等は自我のなかに持たなければならない。

自我の中に孕む矛盾。
その矛盾を学んでは捨て、学んでは捨てるという行為を繰り返していくことで受けいれる。

それが「より良く」生きる、ということではないだろうか。
それが「薔薇の声を聞く」ということではないだろうか。