広島平和記念公園【丹下健三|広島県広島市】

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平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。
平和は自然からも神からも与えられるものではなく、
人々が実践的に創り出してゆくものである。
この広島の平和を記念するための施設も与えられた平和を
観念的に記念するためのものではなく平和を創り出すという
建設的な意味をもつものでなければならない。
わたくし達はこれについて、先ずはじめに、いま、建設しようとする施設は、
平和を創り出すための工場でありたいと考えた。
その「実践的な機能」を持った工場が、
原爆の地と結びつくことによって、
平和を記念する「精神的な象徴」の意味を
帯びてくることは極く自然のことであろう。
この二つの調和が計画にあたっての目標であった。

丹下健三「広島市平和記念公園及び記念館競技設計等選図案1等
ー広島市平和記念都市に関連してー」『建築雑誌』1949年11月号


広島は世界ではじめて核兵器で爆撃された街である。

広島は戦争の悲惨さを知り、平和の尊さを知る街である。
広島を故郷とする人間はそのことを誇りに思っている。

自分もそんな広島県人の一人である。


広島には世界平和を願うための施設が二つある。

村野藤吾が設計した世界平和記念聖堂ともう一つが今回紹介する平和記念公園。
日本が世界に誇る建築家、丹下健三氏がマスタープランを担当し、1954年完成。
負の世界遺産、原爆ドームを筆頭に、
平和記念資料館、原爆慰霊碑など、平和を祈る数々の施設を有し、
広島のみならず、日本が世界に誇る「平和を祈る場」である。


幼い頃からこの公園は身近な場所だった。
遠足で何度も訪れたし、フラワーフェスティバルではメイン会場になる。
しかし、当時はこの施設の存在意義を本気で考えたことはほとんどなかった。

故郷を永く離れ、建築に興味を持つようになった今、
ようやく僕はこの公園に正面から向き合うことができる。


故郷の大切さを知るために人は旅に出る。


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まずは負の世界遺産、原爆ドーム。
当時は「産業奨励館」という広島の文化拠点だった。

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現在残っているのは建物の一部で、当時はもっと大きかった。
負の遺産を語り継いでいくため、倒壊を防ぐために
鉄骨および樹脂を注入して保存対策をしている。


原爆の子の像。
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動員学徒慰霊塔。
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平和の灯。
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原爆慰霊碑。
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慰霊碑にはこう刻まれています。
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安らかに眠って下さい。
過ちは
繰り返しませぬから


鞍型のHPシェルが美しいモニュメント。
慰霊碑正面から空洞部を眺めると、原爆ドームが中央に納まる配置となっている。
当初は丹下氏が推薦したイサム・ノグチが原爆慰霊碑をデザインすることになっていた。

「原爆慰霊碑は報酬などとは論外な、人間としての責任と義務からの利他主義に徹した仕事にしたかった。人類が犯した罪の償いを象徴する仕事に、外国人とはいえ日米の血が流れている自分が参加することへの複雑な、だが、強い渇望を感じた」(ドウス昌代「イサム・ノグチ 宿命の越境者」)

しかし、イサムは突然不採用の通知を受け取る。

「それを見たときのぼくの気持ち言葉にすることは永遠に不可能でしょう。これは丹下さんにとっても予想もしなかったことでした。丹下さんがぼくに言ったのは、アメリカ人であるからかも、という言葉だけでした。...(中略)...いうまでもなく、僕はこの通知に心をえぐられるほどに深く傷つきました。...(中略)...ぼくが不採用になった代わりに、丹下さんが四日間でデザイン案を提出するように命じられました」(ドウス昌代「イサム・ノグチ 宿命の越境者」)

建設の最終決定権を持っていたのは広島平和記念都市建設専門委員会だったが、
この専門委員会の中心的存在だったのが丹下の恩師である岸田日出刀氏。
彼が強硬にイサムの採用に反対した。
当時日本建築界の「天皇」と畏怖されていた人間に反対されてはどうしようもなかった。

結局イサムが言うように丹下が急きょ四日間で提出した慰霊碑案が採用された。
国境を超えるための平和プロジェクトがくだらないナショナリズムに振りまわされた。
なんとも愚かしい話じゃないか。


イサムの原爆慰霊碑案は現在ニューヨークのノグチ・ミュージアムで見ることができます。
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イサムの案では地下にも空間があったんですね。


平和記念資料館。
中央にピロティで持ち上げられた横長の直方体、
その両端に正方形の建物を配置。

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ピロティ。
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粗めのコンクリート肌。
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ピロティから見える中央噴水。
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中へは慰霊碑側からみて左側の正方形の建物(東館)から入ります。
見学料は大人50円。(2016年4月より200円に値上がりしました;;)
写真撮影OK。


原爆ドームのドーム部分レプリカ(実物のおよそ70%)。
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天井に映る影が負のオーラを醸し出す。


渡り廊下を渡って本館へ。

B29から投下された原子爆弾。
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投下から1秒後、上空600メートルに現れた巨大な火の玉。
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焦土と化した大地。
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焼け野原を逃げ惑う人々。
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壁に刻まれた「水をください」の文字。
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原爆が落とされた時刻「8:15」で止まった時計。
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そして8月15日、戦争は終わった。


平和への祈りを込めて折られた折鶴。
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平和公園の全体模型。
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原爆ドーム−原爆慰霊碑−平和資料館のセンターが、
一直線上に並ぶように設計されています。

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資料館を出て、噴水側へ。

嵐の中の母子像。
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日時計。
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平和大通りを挟んで、「平和の門」。
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高さ9m、幅2.6m、奥行き1.6mのガラス製10基の門。
被爆60周年となる2005年にフランス政府後援による「平和の壁」プロジェクトで、
建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモット氏と芸術家クララ・アルテール氏により制作されたもの。
門の間隔は平和記念資料館を支える柱と平行になっており、
門が10基なのはダンテの「神曲」に登場する9つの地獄に原爆の地獄を加えたもの。


各国語で「平和」を意味する単語がプリントされてます。
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18種類の文字と49の言語で「平和」が刻み込まれています。


イサム・ノグチデザインの平和大橋「創(つくる)」。
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イサム自身はデザインの意味について語らなかったが、
力強く昇る太陽のような形象は、誕生を意味すると理解された。
このほかにイサムは西平和大橋「行(ゆく)」も手がけています。
こちらは船の舳先(へさき)をイメージしたデザインであると言われています。


ピロティで持ち上げられた立方体、荒い仕上げの重厚感あふれるコンクリは、
コルビュジエからの強い影響が伺え、強い存在感を生んでいるような気がする。
ただ、造形的な見地からすれば今ひとつ物足らない感があります。
たぶん「近代建築の5原則」など、
最先端技術への傾倒がもっとも顕著だった頃の
コルビュジエの傾向を受け継いでいるのだろう。

広島平和記念公園が完成したのが1954年。
その10年後に東京マリアカテドラル、代々木競技という二つの傑作が誕生する。
一方コルビュジエは一足早く1955年にロンシャンの教会で「箱」からの脱却を図った。


箱は途中過程の形状である。
最終的には人は自分と同じオーガニックな形状に回帰するのではないだろうか。


【information】

アクセス:広島駅前から広島電鉄電車「宮島口」「江波」方面行に乗車し、「原爆ドーム前」下車
入場料:無料(ただし平和記念資料館は大人200円、65歳以上100円、高校生100円、中学生以下無料)
駐車場:公園南側、平和大通り付近に市営駐車場(有料)