こちらの緑は深い。
遊子川の内外を通るにつけ、目に飛び込んでくるのは「緑」。
山の中だから当たり前、といえば当たり前なのだけど。
都会、というとコンクリート・ジャングルをイメージするけれど、
道路には街路樹があり、公園も多く、意外と緑は多い。
それは人間が自然の一員であり、理性では自然を支配しようとしていても、
原始本能では自然を希求することの証なのだろうけれど。
東京時代のブログと、このブログでの緑を見比べてみても。
もう一度言うけれど、こちらの緑は深い。
積み重ねられる緑の積層レベルは都会の比ではない。
ここの緑に比べると、都会の緑がいかに薄っぺらいか。
自然の深遠さ、偉大さ、大切さ、人間との親密さを感じさせるのは、
こうした奥深い緑ではないだろうか。
だから、こうした深遠な緑に出会うたびに、
カメラにおさめてブログに掲載し、
多くの人に深遠な緑が伝えるものを伝えたい、と思うのだけど、
写真にすると、途端にただの緑になってしまう。
自分の撮影技術が未熟なのか、
あるいはそういうものは写真では伝わらないものなのか。
...たぶん両方なのかもしれないけれど。
それでも、言葉にせずにはいられない。
伝えられずにはいられない。
人が思う以上に、世界は広いのだ、と。
このブログを見ていただいた方から、
「いい写真だね」と、時たまお褒めの言葉をいただきます。
それは素直に嬉しいのですが、一方で、
「過飾」になっていないか、必要以上に良く見せようとしていないか、
その光景が伝えようとしている本質以上のものや、以外のものを伝えようとしていないか、
と常に自問する自分がいます。
基本的にカメラのハードや撮影技術については無頓着なほうで、
撮影したあと、Photoshopで簡単にレベル調整、シャープなどをいじる程度。
かつて写真はただ事実を断片的に切り取るのみで、
撮影者個人の個性や表現性なんてないと思っていた。
だけど、こうして自分で写真を頻繁に取るようになって、
写真も絵画のように、人としての想いを伝えることのできる表現手段だと感じるようになった。
僕は人を撮るのが苦手で、加えてプライバシーの問題もあるので、
あまり人が写った写真は撮りません。
でも、それは人に興味がない、ということではなく、
人のいない光景からでも、撮影者やその風景にそばにいる人間を感じられるような、
人がいないからこそ、逆に人の存在を強く感じさせるような、
そんな写真を撮りたいと思っています。
写真を専門に勉強したわけではないので、そんなに簡単にはいかないけれど、
大学でデザインを学んだ自分なりのこだわりでもあります。
人は眼に見えるもの以上の世界を感じることができる。
眼に見える光景から、眼に見えない「良さ」を引き出すことができる。
そのようにして、遊子川や、城川町、西予市、愛媛県、ひいては日本を元気にできたら、
どんなに素晴らしいだろう。
tama
ご公務お疲れ様でございます。
遊子川の様子 すごく伝わってきます。
今後もどんどん伝えていってくださいませ。
ただおー
tamaさん >
コメントありがとうございます。
そう言っていただけると励みになります。
tamaさんのブログ少し拝見しました。
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