もののけ姫

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

51K4SXQGBNL__SL500_AA240_.jpg

このDVDをAmazonで買う


いまさらですが。

いわずと知れた、宮崎駿の超大作。


「タタリ神」に取り憑かれたイノシシから村を守るべく戦ったアシタカは、
腕にタタリ神の呪いを受けてしまう。

呪いを解くために、村を離れ、西へ向かうアシタカ。
途中怪しい老僧に出会い、
イノシシを撃ち、タタリ神となる元を作ったエボシが束ねる村、タタラバを訪れる。
タタラバは森の木を倒し、村を守るための武器である鉄砲を作るための
鉄工場を持っていた。

森は全ての自然を司る神シシガミの住む場所であり、
人間でありながら森を守ろうとする少女サンがオオカミ親子と共に暮らしていた。

人間の暮らしを守ろうとするエボシ、
森を守ろうとするサン。
両者は相容れず、戦わなければならない運命なのか。


...この物語は人間が背負うべき「原罪」を問う物語だと僕は思う。

人は自然と争い、自然を壊すだけでなく、
同じ人間同士とでさえ争い、時には殺し合う。

人間はあまりにも賢すぎた。
それは人間の優れた能力であると同時に愚かな部分でもある。


本来「いきもの」というものは、自分と同じ種の繁栄しか考えない自分勝手なもの。
それでも自然界は調和が保てるようにできていた。

しかし人間はあまりにも賢すぎた。
その優れた知恵をひとたび創造に使えば素晴らしい環境を創りだした。
ただあまりにも強大なその環境は周囲を破壊するほどの力も持っていた。

一方でいきものには種を存続させるために、
より優れた能力を持つものを生み出してゆくために、
同じ種同士でも争う本能を持っていた。

優れた知恵をその闘争本能に使ったとき、
人間はさらに恐ろしい破壊能力を持ついきものとなった。


優れた知恵を持つ人間は、自らの種を守る本能だけでなく、
自らが暮らす環境である自然を、地球を守る責任がある。
それが人間が持つべき責任であり、背負うべき罪だと思う。
そのために人間には理性が与えられている。


「言葉」ははたして人間だけが持つものなのだろうか。
その問いかけもこの物語ではされている気がします。
オオカミやイノシシが喋るのはけして動物の気持ちを語るためだけの
擬人化ではないと僕は思う。

言葉は同族同士でのコミュニケーション手段だ。
本来コミュニケーションというものは種の繁栄のためのものであり、
他の種に干渉するためのものではない。
いきものは餌をとるなど必要最小限でしか他の種に干渉したりしない。


しかし人間は「愛」などという言葉を使ってやたらに他の種に干渉する。
その行為自体が罪なのではないか。

人間には「共感」機能が備わっています。
他の人と同じことを考えていると感じることに喜びを感じる。

しかし全てのいきものに共感機能があるわけじゃない。
実際人間以外の霊長類には共感機能はないみたいです。

人間以外のいきものは自分のことしか考えなくても
自然のバランスを壊すことはない。

人間だけが、自分のことしか考えないと周囲の自然を壊してしまういきものなのです。
実に罪深いとは思いませんか?


エボシは人間の「罪」そのものであり、
サンは人間の「愛」そのものであり、
アシタカは罪に向き合う「理性」である。


罪と愛が争っても自然は救えない。
いや争っている時点でそれはもはや愛ではない。
愛は罪を意識し、受け入れることだ。

罪を意識すれば、その罪を償うためになにをすればよいか見えるはず。


「もののけ」は人の心の中にある。

「おまえにサンが救えるか?」


「愛」はなんのためにある?