空創展 - 搬入・会場設営

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火曜日のゼミも大詰め。

翌日からの展覧会スタートに向けて搬入開始。

正午に大学集合。
総勢20名程度のゼミ受講生のうち、集まったのは男女2名ずつのたった4名。

夜間の大学だから、昼間働いてる人が大半なのも分かるけど、
それにしても学生のやる気なんてこんなものか、と思ってしまう。


汗だくになりながら、トラックに重いパーティションを積み込む。
汗だくになりながらトラックからパーティションを降ろし、
汗だくになりながら全くバリアフリーでない搬入路を台車で会場へ運び、
汗だくになりながら会場でパーティションを組み立てる...


...ふと、高い授業料払って自分はなにをやってるんだろう、と思うこともしばしば。


でも汗だくなりながら、6時間作業して疲れ果てた後、
やっぱりこのゼミも貴重な学びの場なんだと思うことができた。


デザインをする、ということはただ作品を創ればそれで完結するものじゃない。
さまざまな作業と過程と人の手を経て、社会に出て行かせることだ。

疲れ果てながらも大学に戻り、授業に出席。

「環境生活デザイン」の授業で。

「軽薄短小」という言葉について。
江戸時代における贅沢禁止令からミニチュアの走り、
江戸小物細工が発展したとのこと。

そこから「小ぎれい」「小ざっぱり」「小粋」などといった
接頭辞に「小」をつける表現が生まれてゆくのですが、
微妙なニュアンスを表現する日本独特の文化がそこにある、とか。
さらに日本の小型化技術もその辺からきているようだという話になって。

確かに小型化技術も素晴らしいと思う。
でもそれだけが正しい道だという判断はどうかと思う。

例えばポータブルのミュージックプレーヤ。
持ち運びが便利で手軽に使えることでiPodを筆頭に爆発的にヒットしている。
一方で昔ながらの据え置きのオーディオプレーヤー市場は縮小してゆく。
手軽さと引き替えに「本当に良い音」を失いかけていないだろうか。


「アイデンティティ・デザイン」の授業で。

  「現代は形だけデザインすれば良い時代ではない、
   と言われているが、それはなぜか?」

  「形だけのデザインでは金にならないからだよ。」

なんかカチン、ときた。
同時に何か悲しくもあった。
何かが矛盾している気もした。

でもやっぱり先生が言ってることは正しい、とも思った。

ただ、正しいことはただ1つじゃない。
たくさんあるし、相反する事柄でもその両方が正しい、ということもある。
この世界は矛盾に満ちている。
矛盾していることが間違っている、ということではないはずだ。

情報デザインとか、CIデザインとか。
それらが全く無用、と言う気はない。
ただあまりにもソフトウェアを重視する風潮には疑問を感じる。
そういう風潮が形(ハードウェア)を軽視させ、
世界をややこしくさせているんじゃないか。
...そんな気がしてならないのです。


「デザインはテクノロジーとヒューマニティとの間にある存在」
とは丹下健三氏の言葉ですが、
それはとどのつまりコミュニケーションを具現化する存在でもある。
だとしたらデザインはもっと簡単で、もっとシンプルであるべきではないだろうか。
単に僕の勉強が足らないだけなのだろうか。


僕は形にこだわりたい。
触れることができる形にこだわりたい。

「この形さえあれば他は何も要らない」と言わしめるような形を考えてゆきたい。

形とは重さがあるものだ。
その重さで形の価値を知ることができる。
紙にしてもパネル張りするにはそれなりの重さを感じるものだし、
デジタルデータを見せるにしてもディスプレイというハードが必要だ。

重いものを運ぶのは大変だ。
それはそんなに大変な思いをしてまで運ぶ価値のある形なのか?

パソコン上でポンポンと重さのないのない形(=デジタルデータ)を
つくり出しているだけで本当の価値が見出せるだろうか。


この世界で重さを感じよう。
....ただ、あまり重すぎても苦しいけど。

誰かがこの重さを分かち合ってくれると嬉しいのだけど。