GWも後半。
同級生から建築系の面白そうなインスタレーション展示をやっていると聞き、
久々に竹橋の国立近代美術館へ。
アトリエ・ワン、中村竜治、中山英之、鈴木了二、内藤廣、菊地宏、伊東豊雄。
日本の7人の建築家によるインスターレーション展示。
...何とも深いテーマじゃないですか。
この展覧会の嬉しいところはめずらしく写真撮影OKだということ。
見る人それぞれの「建築はどこにあるの?」の答えをflickrの専用サイトに
アップしよう、というキャンペーンもあるとか。
とりあえず僕は文章と写真でその答えを整理したいので、
いつも通り自分のブログにアップしますが。
さらに入場料がいつもより安い。
学生料金450円でもいつもより安いのに、
キャンパスメンバー特典でさらに250円へ値下げ。
GWとあって混雑しているかなあ...と思いきや、チケット売り場で並ぶこともなく、
会場も快適に鑑賞することができ、写真をたくさん撮ることもできました。
はたして僕の建築はどこにあるのか。
まだはじまってもいない自分にその答えは見えようはずもないのかもしれないけど。
まずは建物前の庭に展示してあるアトリエ・ワンの「まちあわせ」。
この作品だけは入場料を払わなくても鑑賞できます。
キリンの群れが草を食んでいる。
竹材の骨組みで組み上げられたその展示は、
その体内に入ることもできる。
内部に空間を持つそれらは、間違いなく建築なのだろう。
構造がそのまま内部と外部を規定している。
ここに建築はある。
...そう感じた。
中の会場入ってすぐに見えるのは中村竜治「とうもろこし畑」。
「バルカナイズドファイバー」という紙を糊でくっつけているらしい。
基本要素は直線で構成されており、その無限の繰り返しで、有機性が表現されている。
自然の構成原理。
気の遠くなるようなシンプルな本質の繰り返し。
トータルとして見えてくる美しさ。
...ここにも建築を感じた。
続いて中山英之の「草原の大きな扉」。
どこかで見たような構図だと思ったら、
「ヴィヴィッドテクノロジー」で紹介されてたものだった。
しかしスケール感がバラバラで何か違和感を感じた。
建築というよりは建築に相対する存在というイメージだった。
そういう形で建築を感じることができるのかもしれない。
鈴木了二「物質試行51 DUBHOUSE」。
大きな箱の中に1つの部屋。
大小さまざまなキューブによってカッティングされた複雑な内部。
部屋の中には1組のイスとテーブル。
見る角度によって変化するイメージ。
どんな優れたグラフィックでも表現することのできない三次元独特の感覚。
...ここにも建築はあるな。
続いては内藤廣の「赤縞」。
真っ暗な空間に天井から投影される赤い光のストライプ。
そこに渡された白布を持ち込むことで、人が動くことで空間が生まれるのだという。
なるほどね、と思いつつも、白布だけでは十分に空間を感じきれなかった気がする。
なにかもの足りなさが残った。
「構造デザイン講義」を読んで内藤氏に興味を持ち、期待していたぶん、少しがっかりしたのかも。
続いて菊地宏の「ある部屋の一日」。
部屋の模型の周囲を電球がぐるぐる回る。
その様子を撮影し、その映像が隣の部屋に映し出される。
建築に含まれる時間の概念を伝えたいように思うのだけど、
メディアに慣れきっている現代人にはどこかピンと来ないのではないだろうか。
伊東豊雄「うちのうちのうち」。
直角のない空間。
幾何学図形の基本要素「細胞」が集まって構成される「組織」。
いろんな形で表現された「建築」の概念も、一番最初の「とうもろこし畑」と
同じようなものへと還って行くような気がした。
はたして建築はどこにあったのか。
建築をまったく知らない時分は、どこか遠くにあるものだと思ってた。
今だってそんなに知っているわけじゃないけれど、
自分なりに勉強してきて感じることは、それは意外と近くにあるんじゃないか、ということ。
だって建物に住まわない人はいないのだから。
誰も身近に接しているのだから。
ただ、あまりにも当たり前に近すぎて、意識しなくなっているだけ。
同様に便利であることがあまりにも当たり前すぎて、
人々は「工夫する面白さ」を忘れている。
意識するだけで人は建築を思い出せる。
建築とは、自分が存在する環境(空間)を、より良くするための工夫だと思う。
良い環境が、良い人を育てる。
だから人間には良い建築が必要なのである。