白井晟一 精神と空間【群馬県立近代美術館】

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[図録 2940円]


高崎の群馬県立近代美術館で開催中の白井晟一展へ行ってきました。

本当は東京造形大で開催されているときに観にいきたかったのだけど、
八王子という遠さから足がなかなか向かなかった。
...結果的にもっと遠くへ足を運ぶことになってしまったけど。


前から気になる建築家だった。
とても哲学的、という点で。

彼の作品で知っているのは神谷町のNOAビルと、渋谷の松濤美術館。
どちらも外観までしか眺めたことはない。
彼の建物はどこか入りにくい、という雰囲気がある。
そこが彼の建築の持つ荘厳さなのかもしれない。


まさに日本建築界の「仙人」。


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会期ももう終了間近というのに平日ということもあってか、
会場内にはほとんど人がいず。
来場者よりも係員の人数のほうが多いくらい。
こう来場者が少ないと監視されているようで落ち着かず。

めったにない静けさに最初は気分が落ち着かなかったけど、
慣れてくれば実に絶好の鑑賞状況。
芸術とは本来こういう状況で鑑賞すべきものなのだ。
開催者側にしてみれば、運営大変かもしれないけど。

事前に申請すれば会場内が撮影可能と聞いていたので楽しみにしてたのだけど、
結局、企画展に関しては遠景も含め撮影NGとのことでがっかり。


展示は磯崎新設計の美術館というこれまた哲学的な空間と実ににマッチしていた。
高い天井に、少し暗めの会場。
中央に原爆堂専用の小空間が配置され、その周囲を他の作品が取り囲む。

通常、建築系の展示はそのスケール故に現物が展示されることはほとんどなく、
図面とパース、模型が展示されるもので、
どうしても物足りなさを感じてしまうものだけど。

彼の図面やパースはハンパなくレベルが高い。
「図面なんて誰が書いても同じようなものじゃん」
...CADに慣れきった現代人からすればこう思ってしまうものだけど。

それがコンピュータもろくにない時代に手書きでかかれたそれらは、
間違いなくCAD図面よりも美しく、芸術作品と呼ぶにふさわしい。
パースに至っては、ルドゥーなどのヴィジョナリー・アーキテクトに
匹敵するほどのものがあるように思える。

それでいて実現された建物たちにもその荘厳さが失われていない。
まさに本物の建築とは、こういうものではないだろうか。


模型のレベルも高い。
京都繊維工芸大学の研究室作。
木で作られているのだけど、その繊細さが実に白井建築とマッチしている。
いやー、勉強になります。


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[NOA(神谷町)]


彼は、建築を志す前に、哲学を学び、海外留学までしています。
彼の建築の哲学的な雰囲気は、そんな彼の経歴からくるものなのだろう。
そして建築そのものだけでなく、その言葉にも惹かれるものが少なくない。

美を誘うものは、好奇心だといわれる。人間の好奇心は、形と色につながれているという。だが豆腐の平凡な形と色にどのような奇があるだろうか。私はかつて豆腐を、離れて考えることはなかったし、ふりかえって見たことはなかった。刺戟する奇がないのである。「用」に奇のある筈はないであろう。それならばもし豆腐に美を感ずるとすれば、それはどういうことなのか。...(中略)...刃のない真直な庖丁で厚薄縦横に裁断される豆腐の、そのことごとくの一片が「用」の意志の決定するまま自在なモデュールを形成しているのではないか。概念から逆算されるコンパス・モデュールと異なり生活の意志は作為をかりず、「用」のなかから自ら純粋な均衡を生む。生の調和した聯関を形成するいろいろな要素が、澄明な、「用」の泉の底に音もなくいつまでもわれわれの感応と発見を待っている筈である。(「豆腐」より)

世の建築が「箱」で溢れていることに疑問や違和感を感じているけれど、
「箱」がけして美しくない、と思っているわけじゃない。

美しい「箱」は確かに存在する。
ミースの作った一連の箱は本当に美しい。
その美しさは自然からくるものではない。
「作為」そのものではなく、「正しさ」が美醜を決めるのだ。
自然が導く正しさもあるし、人間の叡智が導く正しさもある。
しかし叡智の源泉は必ず自然にある。
人間は自然の一部だから。


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松濤美術館(渋谷)]

美は人間が作るものだとは云い難い。求めて得られるものではない。人間にはただ表徴と抽象の能力が与えられているだけである。洞窟内の引掻画や土偶は、原始人の生命意志の表象であって美の意識がつくったものではない。飛鳥仏の微笑もアッシジの小鳥説法も美が目的ではない。人間が聖なるものに結ばれんがために祈願と求法の象徴としてつくったものにちがいない。美の予想ないところ又機械における美と異なるものではないだろう。「美」は究竟において「用」の属性にすぎず、残忍酷薄の大慈悲がわずかに許す老婆心切の「美」のみが考えられるだけである。「用」かた「美」を独立させたときから自然力としての人間は誤られ始める。「美」をつくる術が人間の手にあると思い上がったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった。それからの人間はあけてもくれても「用」と「不用」の闘いを続けざるを得なくなったのである。私はさきに「豆腐」の美を「用」のうちに規定した。人間の知恵と自然の理法の善における調和をもって他の「美」を区別した。しかし、かかる区別は畢竟、極限としての価値において尚「用」と「美」の対立を内包するものである。(「めし」より)

美は美を求めて作られるのではなく、
「正しさ」とか「秩序」といったものを求めた結果得られるもの、
ということだろうか。


作為なくして工夫なく、
工夫なくして新しきものなし。

...なかなか難しい問題だ。


自然な構造体」を読んだばかりということもあって、
「自然」と「人工」と「美」の関係性について考えこんでしまいました。


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図録は2940円という値段の割には薄く、
展示内容のすべてが網羅されているわけではないけど、
それでも内容が濃く、写真も良いのでオススメ。
彼の作品の図面がポスターとして付属しているのもウレシイ。