デザインは「生もの」

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今年2回目の特別講演会。

今回はめずらしくPD系の講演。
講師はフリーのプロダクトデザイナーで
JIDAデザインミュージアムの運営者でもある大縄茂氏。


「製品デザインの過去・現在・未来」というタイトルで、
サブタイトルは「五感から観た日用品とデザインの変容」。

レイモンド・ローウィにはじまる工業デザインの歴史を
五感で分類して俯瞰する、という内容。

前回の祖父江さんと違って時間一杯がっつり講義系みたいな感じで、
少々退屈気味だったかな。


「デザインミュージアム」という言葉自体がなにか違和感を感じるのはなぜだろう。

「デザイン」はミュージアムに並べるものじゃないと思う。
ミュージアムに並んだ途端に、もはやそれはデザインでなくなる。

デザインは生ものだ。
ミュージアムのような場所に置いてしまうと鮮度が落ちてしまい、
やがては干からびて干物になってしまう。
その意味ではアートは干物なんだろうか。

デザインは日々の生活の中でこそ生きる。

MoMAのパーマネントコレクションのように、
アートに昇華するようなデザインならともかく、
日用品として使われてきた生活デザインがミュージアムに並ぶのは、
ちょっともの悲しい気もする。
それらは「ミュージアム」ではなく、せいぜい「資料館」どまりのような気もする。


できるだけ長持ちする恒久的なデザインが真のデザインだと思う。
だから僕は建築が好きなのかもしれない。
そのスケールの大きさゆえに建築では価値がゆっくり流れる。
だから建築家の作る家具は普遍的なのかもしれない。
ローマのパンテオンも、法隆寺の五重塔も悠久の時を経た現代においても
それらは古臭さは感じても、美しさは損なわれていない。

ところがプロダクトはそうはならない。
スケールが小さくなればなるほど、
そのデザインは流行というスピード感をもった尺度の影響を受けるようになる。
そのスケールの小ささゆえに簡単にコントロールができてしまう故に。

当時どんなに洗練されたデザイン、ともてはやされても、
10年、20年経つとださく見えるものが少なくない。
ソニーが1950年代に発売したトランジスタラジオも、
当時としてはずいぶん画期的だったけれど、
今あらためて見るとおもちゃのようで陳腐に見える。
当時のカリスマ創業者、井深氏と盛田氏の汗の結晶、ということは分かっていても。
ユーザーはメーカーの苦労などは関知しないものだ。

テレビやラジオ、パソコンなど、
製品のデザインスケールがその当時の技術力で決まってしまう商品ほど、
その傾向が大きいと言える。
技術の進歩は日進月歩だから、時の経過と共に陳腐化の傾向が激しくなる。

逆にイスやテーブルなどはどんなに科学が発達しても、
人間の身体のスケールはさほど変わらないから、
デザインのスケールもさほど変わらない。
むしろ使えば使うほど味が出て、良いデザインになってゆくことすらある。

このように考えてみると、人間の身体に触れる機会が多いものほど、
時の経過によってデザインの価値が上がってゆくのではないだろうか。

大縄さんは五感を大切にすべき、というけれど、
僕には視覚と触覚以外はピンと来ない。

味覚、聴覚、嗅覚は一時的なもので情報としては曖昧で弱いものを
わざわざデザインするのもどうなんだろう、と。

感覚の観点で、味覚デザイナー、聴覚デザイナー、嗅覚デザイナーというものが
メジャーにならず、ビジュアル(視覚)デザインと3Dデザイン(触覚)デザインの
二種類だけなのはそれなりに理由があることではないだろうか。

ビジュアルデザインでは即効性が求められ、
3Dデザインでは普遍的な恒久性が求められる。


もちろんどちらも大切なものなのだけど、
自分のアイデンティティとしては後者を追求していきたい。

生きたデザインをして、
干からびた後はミュージアムに並べられるような、
そんなものを創りたい。