現代デザイン講座第4巻「デザインの領域」に収められている一編。
1991年に筑摩書房より刊行された「鶴見俊輔集6」に収録された
「限界芸術論」とは基本的に別物のようです。
現代デザイン講座の発刊は1969年なので、
こちらの収められている「限界芸術論総説」のほうが全然古いわけですが。
1991年版のほうは解説形式の記述になっているのに対し、
1969年版のほうは大学での講義録を記述したものになっています。
学生への質問、質疑応答などの様子がそのまま記載されていて、
会話を体験するように読むことでができ、1991年版の解説形式に比べて分かりやすい。
元々は「環境生活デザイン」の授業で紹介された1991年版を探しているうちに、
この1969年版に出会ったわけですが、思わぬ見つけもの。
ネットの古本屋で900円でGETできました。
1991年版は定価1300円。
1991年版より分かりやすく、しかも他の読み物まで収録されていてこの安さ。
たださすがに古すぎて、プレミアがつきはじめているのでご注意を。
川添登氏の「デザインの領域」と併せて読むと、
デザインと芸術、および社会とそれらの関係性がより理解できると思います。
本論は以下の2章から構成されています。
大衆社会状況とはなにか
限界芸術論
限界芸術というものを語る前に、現在の「大衆社会」というものを知る必要がある。
従来は一部の教養人、知識人によって文化は形成されてきた。
それが民主主義の興隆およびマスコミュニケーションの発達により
誰でも手軽に文化に触れ、文化を形成されるようになった。
それは文化に触れ、文化を形成する人が総和的に増え、
文化の飛躍的な向上を見せた、という単純な状況にはならなかった。
そのような側面も確かにあったのだけど、
実際には文化の粒子ともいうものはどんどん細かくなって、
砂のようなものになっていった。
それは一つ一つの文化が細かくなると同時に均質化していくということでもある。
粒子数は増えたが、1つ1つの粒子も細かく、似たようなものになった。
マンションという巨大集合住宅が激増したけれど、
隣人間の関係性が深くなったわけではなく、逆に浅くなってしまった。
同一のものを瞬時に大量にコピーする。
マスプロとデジタルの進化により大衆社会はより大衆社会化していった。
インターネットの進化により個性の重視が叫ばれるようになったものの、
「砂のごとき」大衆社会はまだその壁を越えられてはいない。
...と大衆社会の状況を理解した上で、いよいよ限界芸術の登場。
鶴見氏は芸術を以下の3つに分類する。
<純粋芸術>
芸術について十分に勉強した芸術の玄人がつくって、
その芸術に対して十分に研究し、それに慣れた玄人が鑑賞する芸術。
<大衆芸術>
玄人が創りだして、素人である大衆が享受する芸術。
<限界芸術>
素人が自分で創って、それを素人が受け取る芸術。
純粋芸術の代表は、絵画、彫刻、歌舞伎、能、バレー、詩、日本庭園など。
大衆芸術の代表は、デザイン、公園、流行歌、大衆小説、短歌、俳句など。
限界芸術の代表は、日常生活の身ぶり手ぶり、鼻歌、替え歌、どどいつ、らくがき、
手紙、お祭りなど、
この分類によれば、デザインは芸術に内包されるもの、という位置づけになります。
そして芸術というものは大衆(素人)から一部の玄人まで、
あらゆる人間を対象としたもの、ということになる。
限界芸術の「限界」とは、素人と玄人の境を指しているのではないでしょうか。
素人の限界、玄人の限界。
それらを把握することなしに芸術の総合的発展はありえない。
一部の玄人だけでも、芸術は成立しないし、大衆だけでも芸術は発展しない。
玄人だろうと素人だろうと、芸術を創る側にあると同時に、享受する側にもいる。
このことを意識することが「砂のごとき」大衆社会の壁を越え、
より豊かな社会へと向かうために必要な第一歩ということなのだろう。
限界芸術を知らずして、良い大衆芸術や純粋芸術は生まれないだろうし、
良い大衆芸術や純粋芸術は限界芸術への展開が可能である。
芸術とは単に美を追究するだけのものではない。
一部の想像力豊かな知識人や手先の器用なテクニシャン達だけのものではない。
幸せになりたい、と願う人すべてのものである。
今の自分の限界を超えようとする芸術。
それが限界芸術、というものなのかもしれない。
そしてそれはすべての大衆のためのものである(べきである)。