星の巡礼【パウロ・コエーリョ】

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春休みに入って早一週間。

毎回休みにはいると最初の一週間は放心したようになるのだけど、
今回はとくにその放心具合がひどかった。

忙しい割にはやりたくもない作業の積み重ねで、
良い終わり方ができなかったこともある。
いわば逃げ切った感で一杯で後味の悪さだけが残ってしまう、みたいな。


この本も春休み前の忙しくなる前になんとか読み終わっていたのだけど、
ようやくレビューする気になりました。

パウロ・コエーリョの処女作。

キリスト教三大聖地の一つ、サンティアゴ・コンポステーラへの道である「星の道」
への巡礼を通して人間が本当に辿るべき「道」と持つべき武器「剣」を発見する。


自分の道を知り、その道を歩んでいくための「剣」を持つことで、
人は本当に「良い人生」を送れる。



[サンティアゴ・コンポステーラ大聖堂]


今、一番行きたい国、スペイン。
その理由の大半はガウディやカラトラバなどの美しい建築群や、
ピカソやダリなどのユニークなアート群への興味によるものだけど、
このキリスト教三大聖地の大聖堂やアルハンブラ宮殿などの宗教施設にも
惹かれるところがある。

とくに強い信仰心があるわけではないけれど、
学校での「学び」の次にくるものは、旅での「学び」にある気がして、
およそ750kmもの距離を徒歩で巡礼することへの「憧れ」とでもいうものが
僕の胸中にはある。

本書はコエーリョの実際の経験談なのだそうだが、
RAM教団というなんとも妖しげなキリスト教神秘主義の秘密結社の儀式に従って、
巡礼の道中をさまざまな不思議な経験をしながら辿っていく、というもの。
中には本当に起こったことなのかどうか、
現代文明社会を生きる我々には疑わざるを得ない部分もあるのだけど、
大切なのはそれらの出来事が真実なのかどうかではなく、
何を僕たちに教えてくれるか、ということにある。

その意味においては本書は他のコエーリョの著書同様、教えられることがたくさんある。

ちなみに僕は本書を「アルケミスト」「ベロニカは死ぬことにした」に続く三作目として
この本を読みました。


各章の終わりにはいわゆる「悟り」へ至るために必要な実習が紹介されています。
そのすべてが役立つものかどうかは今は疑問に感じるけれど、
ちょっと抜粋してみます。

[種子の実習]  

地面にひざまずき種のようにまるまり、自分自身が種になる。
種が生長し殻を破って芽吹く様子を全身を使って深い瞑想の中でイメージする。
これを連続七日間、同じ時刻に行う。


[スピードの実習]

20分間、普通歩く速さの半分くらいの速さで歩く。
周囲の細々としたこと、人々に十分注意を払うこと。
同じく七日間繰り返して行う。


[冷酷さ知る実習]

自分のことを悪いと思う感情(嫉妬、憐憫、妬み、憎しみ)が生じる度に以下を行う。
人指し指の爪を同じ手の親指の甘皮に痛みを感じるまで食い込ませる。
痛みに気持ちを集中すること。冷酷な想いが消えるまで食い込ませ続けること。


[メッセンジャーの儀式]

自分の両脇に火の海をイメージして「メッセンジャー」を召還する。
そしてメッセンジャーと会話する。


[水の実習]

水たまりで目的を持たず、無心に遊ぶ。
これを1回10分以上、一週間続ける。
すぐに結果を求めてならない。これは直感力を呼び覚ますための実習である。


[青い天空の実習]

「生」がいかに素晴らしいものかを想像する。
世界の合一を自分の身体の中の「青い光」が電流のように流れてゆくことで感じる。
二人以上で手を取り合って行うことが望ましい。


[生きたまま葬られる実習]

自分が生きたまま地中に葬られる様子をイメージする。
生きながらにして身体が腐り、蛆虫に巣喰われる様までリアルに想像する。
苦痛が限界に近づいたら脱出を試み、脱出と同時に悲鳴をあげる。


[RAMの呼吸法]

肺から空気を全部吐き出し、肺を空にする。
両腕をできる限り上に上げながらゆっくりと息を吸い込む。
吸い込みながら宇宙との調和が体内に入るよう意識を集中する。
腕を上げたまま、息をできるだけ長く止める。
その間、宇宙との調和を楽しむ。
我慢できなくなったところで「RAM」と唱えながら空気を全部、素早く吐き出す。


[影の実習]

最初の5分間、無心に自分の周囲の影を観察する。
次の5分間、観察しながら自分が解決しようとしている問題について考える。
最後の5分間で正しい解決法として何が残るか、に意識を集中する。


[音を聞く実習]

数分間、周囲の音のすべてに意識を集中する。
少しずつ、一つ一つの音を区別してみる。
それぞれの音に集中し、他の音を意識的に消してみる。
この実習はメッセンジャーの声を既に知っている場合のみ、1回10分行う。


[ダンスの実習]

5分間、心の中で歌を歌う。少しずつ身体の一部で踊りながら歌う。
その後、歌うのをやめて周囲の音に耳を澄ませるのと同時に
心の中から沸き上がってくるメロディーを感じ、全身で踊る。
1回15分で行う。

いずれも日常の中では「あたりまえ」であるがために、
埋もれてしまいがちな「感性」を呼び覚ますためのものであるような気がします。

良いアウトプットは良いインプットから、ということでしょうか。


続いて各章で惹きつけられた言葉をピックアップ。


「知恵への真の道かどうかは、次の三つの事柄によって見わけることができる」とペトラスは続けた。「第一に、それはアガペの愛を持つものであること、これについてはあとでもっと説明しよう。第二に、君の人生に、実際に応用できなければならない。さもなければ、知恵は役立たずとなり、腐ってしまうからだ。ちょうど、一度も使われない剣のようにね。そして最後に、それは誰もがたどることのできる道でなければならない。今、君が歩いているこのサンチャゴへの道のようにね」(第二章 サン・ジャン・ピエ・ド・ボー)

「より良く」生きるために必要なもの、それが知恵である。
知恵はみんなのためになるものであり、
同時に自分のためにもなるものでなければならない。
そして誰もが使うことができるものでなければならない。


旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。ほとんどの場合、土地の人々がしゃべっている言葉理解することができない。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況に陥った時、助けてくれるのではないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。同時に、すべてのものが目新しいために、そのものの美しさしか見ず、生きていることを幸せに感じる。だから宗教的な巡礼は、常に悟りを得るための最も実際的な方法の一つとされているのだ。小さな罪という意味のペカディッジョ(peccadillo)という言葉は、道を歩くことのできない傷ついた足という意味を持つペカス(pecus)という言葉からきている。ペカディッジョを正すための唯一の方法は、前へ歩き続け、新しい状況に適応し、その代償として、求める者に対して人生が豊かに与えてくれる何千何万という祝福のすべてを受け取ることなのだ。」(第三章 創造する者、創造されし者)

人が旅する理由。
真実はいつも自分の近くにあるけれど、
人は遠くを旅して戻ってこなければその真実を見つけることはできない。


われわれは夢見ることを決してやめてはならない。夢はたましいに栄養を与える。それはちょうど、食事が体に栄養を与えるのと同じだ。われわれは人生で何度となく、自分の愛が打ちくだかれ、失望する時を体験する。しかし、それでもわれわれは夢を見続けなければならない。そうでないと、われわれのたましいは死に、アガペはたましいに達することができなくなる。われわれの目の前に広がる大平原で、これまで多くの血が流されてきた。ムーア人を追い出すための最も熾烈な戦いのいくつかもここで行われた。誰が正しく、誰が真実を知っていたかは問題ではない。大切なのは、そのどちら側も良き戦いを戦ったということを知ることなのだ。良き戦いとは、われわれの心が、そう命じるがためにわれわれが戦う戦いのことだ。英雄たちの時代、つまり、よろいを着た騎士の時代には、これは簡単なことだった。征服をし、多くのことを行うための土地があった。しかし、今日では、世界はすっかり変わってしまった。そして良き戦いは戦場から、われわれ自身の内へと移行したのだ。良き戦いとは、夢のために戦われる戦いのことだ。われわれが若く、夢が初めて内側からはじけ出す時には、われわれはこの上なく勇気に満ちている。しかし、まだどう戦えばよいのか、その方法を学んでいない。努力に努力を重ねて、われわれは戦いの方法を学ぶが、その頃には、すでに戦いにおもむく勇気を失ってしまう。そこでわれわれは自らに背き、自分の心の中で戦い始める。つまり、われわれは自分自身の最悪の的になるのだ。そして、自分の夢は子どもじみていて、難しすぎて実現できない、人生を十分に知らないせいだと言い聞かせる。良き戦いを戦うのを忘れて、自分の夢を殺してしまうのだ」(第四章 自分に対する愛と寛容)

人が夢見るのはなぜか?
「より良く」生きるためである。

夢を殺してしまうことで三つの弊害が生じる。

「自分の夢を殺すと、まず最初に時間が足りないという症状が現れる」とペトラスは続けた。「最も忙しい人たちは、人生には常に、あらゆることをするに十分な時間があることを知っている。何もしない人たちはいつも疲れていて、やらなければならないほんのわずかな仕事にも、注意を向けようともしない。彼らは絶え間なく、一日は短すぎると文句を言っている。本当は彼らは良き戦いを戦うのを怖がっているのだ。(第四章 自分に対する愛と寛容)

まず一つ目は時間が奪われる。
夢を殺すことによって自分の中の時間も殺される。


夢の死による二番目の症状は、われわれの確信の中に現れる。人生を偉大な冒険として見たくないがために、人生にほとんど何も望まない方が、賢くて公正で正しいと思い始める。そして日々の暮らしの壁の向こう側をのぞき見し、槍が折れる音を聞き、ほこりと汗のにおいをかぎ、戦士たちの目の中に、大いなる敗北の炎を見る。しかし、われわれは、戦いに行った者の心に宿る喜び、無限の喜びを見ようとはしない。戦う者にとって、勝利も敗北も大切ではない。大切なのは、彼らが良き戦いを戦っている、ということなのだけなのだ」(第四章 自分に対する愛と寛容)

二つめは、いわゆる「あきらめ」という名の逃避でしょうか。
上を見ず、下だけを見る人生となる。
そんな人生が楽しいはずもない。


「そして、夢の喪失の第三の、そして最後の症状は安逸である。人生は日曜日の午後になる。われわれは何一つ偉大なことを望まず、われわれが与えたいと思う以上のものを何も要求しなくなる。このようになると、われわれは自分が成熟したのだと思いこむ。そして若い頃の思いを忘れ去り、個人的で職業的な業績を追い求める。同じ年頃の人たちが、人生からまだあれを欲しいこれを欲しいと言っているのを聞くとびっくりする。しかし、実は、心の奥底で、自分は夢のために戦うのをあきらめたのだ。つまり、良き戦いを戦うことを拒否したのだ、とわれわれは知っている」...(中略)...「夢をあきらめて安逸を見出すと」と、しばらくして、ペトラスは続けた。「われわれは、ほんのしばらくは安らかな時期を過ごす。しかし、死んだ夢はわれわれの中で腐り始め、われわれの存在を侵し始める。われわれはまわりの人々に冷たくなり、さらにはその冷たさを自分自身に向け始める。こうした時、病気やノイローゼになるのだ。戦いの中で避けようとしたもの、つまり、失望と敗北が、われわれの臆病さゆえに、われわれに襲いかかってくる。そしてある日、死んで腐敗した夢は、われわれを呼吸困難に陥らせ、実際、われわれは死を求め始める。それはわれわれを、自らの確信、仕事、そしてあのおぞましい日曜日の午後の平和から自由にするものなのだ」(第四章 自分に対する愛と寛容)

三つめは二つめと同じ「あきらめ」という根からきているような気がします。
健全な身体は健全な精神から。
精神だって身体の一部なのだから。


「夢を救い出す唯一の方法は、自分自身に寛容になることだ。自分を罰しようとする試みは、それがどんなささいなものであれ、厳しく対処されなければならない。自分で自分を責めさいなんでいるのに気づくためには、精神的な苦痛を起こす試み、たとえば罪悪感、後悔、優柔不断、臆病などを肉体的な苦痛に変換する必要がある。精神的な苦痛を肉体的なものに変えることによって、われわれはそれがどんなにわれわれに害をおよぼしているかを悟ることができる」(第四章 自分に対する愛と寛容)

自虐は決して自分に好影響を与えない、ということ。
それを悟るために精神的苦痛を肉体的苦痛に変換する。
苦行が形は違えど、どんな宗教にも見られるのはこういう事なんだな。


「われわれを取り囲んで助けてくれる物質的な諸々の力の上に、さらに基本的に二つの霊的な力がわれわれに加勢している。天使と悪魔だ。天使は常にわれわれを守っている。これは神の贈り物なのだ。君は天使に加護を祈る必要もない。君の天使の顔は、君が目を開いて世界を見ていさえすれば、いつでも見ることができる。...(中略)...悪魔も天使ではあるが、彼は自由奔放で反抗的な力なのだ。僕は彼のことをメッセンジャーと呼ぶのが好きだ。彼が君とこの世をつないでいる中心的な存在だからだ。古代には、彼はマーキュリーやヘルメスといった神のメッセンジャーによって代表されていた。彼が活躍する場所は物質界だけである。彼は教会の黄金の中に存在している。黄金は地から得られるものであり、地は君の悪魔だからだ。彼はわれわれの仕事やお金の使い方の中にも存在する。われわれが彼を自由気ままにさせると、彼はあちこちに広がってゆく。一方、彼を追い払うと、彼がわれわれに教えてくれる良いことのすべてを失ってしまう。彼はこの世界のことも、人間のことも、それはよく知っている。われわれが彼の力に魅惑されてしまうと、彼はわれわれをわがものとし、われわれが良き戦いを戦えなくしてしまう。だから、われわれのメッセンジャーとつきあう唯一の道は、彼を友人として受け入れることなのだ。彼の忠告を聞き、必要な時は助けを求める。しかし、彼に決してゲームのルールを指示させてはいけない。初めに、自分が何を望んでいるかを知り、次に彼の顔と名前を知ることが必要なのだ」(第五章 メッセンジャー)

善と悪。
どちらも人間には必要なもの。

悪はその性格上敬遠されがちだけど、人間らしさの一部でもある。
自分の中に悪があることが問題なのではなく、
悪に自分が則られることが問題なのだ。


「ギリシャ語では愛を意味する言葉が三つある」と彼は始めた。「今日、君はエロス、つまり二人の人間の間に存在する愛情の発露を見ている」新郎新婦はカメラマンに向かってほほ笑み、祝福の言葉を受けていた。。...(中略)...良いものであれ、悪いものであれ、エロスはどのカップルの間のものも、二つとして同じものはない。。...(中略)...そして、誰もエロスから逃げることはできない。みんなそれが必要なのだ。多くの場合、エロスはわれわれを世界から切り離し、孤独に陥らせるというのに」...(中略)...「協力して仕事をしている中で、彼らは愛の力を発見した。エロスがその最も美しい顔を見せるのはそこなのだ。なぜならエロスがフィロスと呼ばれる愛と結合しているからだ」「フィロスって?」「フィロスとは、友情の形の愛だ。僕が君や他の人々に感じているものだよ。エロスの愛の炎が燃えつきた時、二人を結びつけておくものがフィロスなのだ」「そしてアガペは?」「今日はアガペについて話す日ではない。アガペはエロスの中にもフィロスの中にも存在する。しかし、それは単なる言いまわしにすぎない」...(中略)...アガペについて議論することは本当はできない、それは生きられねばならないのだと言った。(第七章 結婚、第八章 法悦)

愛の三つの形。

最もわかりやすい愛の形は愛のはじまりにすぎない。
エロスはフィロスへ。
そしてフィロスは人間だけが持つことができる究極の愛、アガペへと変容する。


「アガペは完全な愛だ。そしてこの愛を体験する人を焼きつくす愛である。アガペの何たるかを知り、体験した人は誰でも、この世で他に大切なものは何一つない、愛だけが大切だということを学ぶ。...(中略)...キリスト教文明の二千年間、たくさんの人々が、この焼きつくす愛に捕らえられた。こうした人々はあまりにも与えるものを多く持ち、あまりにも少ししか要求しなかった。そして彼らは砂漠や人のいない場所へと出て行った。なぜなら、彼らが感じた愛は非常にすばらしく、彼らをすっかり変えてしまったからだ。そして今、われわれが知っている隠者となったのだ。。...(中略)...「アガペは焼きつくす愛だ」と彼はくり返した。まるでこれが、この不思議な愛を最もよく定義する言葉だとでもいうかのようだった。...(中略)...アガペは好きと感情よりずっと深いものだ。それは私たちの内なるすべてのスペースを満たし、おおいつくし、われわれの攻撃性つまらないものに変えてしまう感情なのだ」(第八章 法悦)

すべての人々がアガペへと行き着くことができたなら。

世界はパラダイスに、極楽浄土に、桃源郷になるものを。


人生の重大な決定を下す前には、何かリラックスできることをやるといいよ」(第八章 法悦)

いわゆる「嵐の前の静けさ」的な教訓なのかな。


「人間は、自分が死ぬということに気づいている唯一の存在だ。そのために、そして、そのためだけに、僕は人類に対して深い尊敬の念を持っている。そして、人類の未来は現在よりずっと良くなると信じている。自分の人生には限りがあり、予想もしない時にすべてが終わるということを知っていても、なお、人々は、自分の人生で、永遠の生命を持つものこそにふさわしい戦いをしている。人々が虚栄とみなしているもの、つまり、すばらしい仕事を残したり、子どもを持ったり、自分の名前が忘れられないように一生懸命になったりするのは、人間の尊厳の最高の表現であると僕はみている。それでもなお、か弱い生きものである人間は、常に自分たちが確実に死ぬということを自分に隠そうとしている。人生で最もすばらしいことをしようと彼らに思わせるものは、死そのものであることを、人は誰も見ようとしない。彼らは暗闇に足を踏み入れるのを恐れ、未知を恐れている。そしてその恐怖を克服を唯一の方法は、自分の人生が限られているという事実を無視することなのだ。死を意識してこそ、もっと勇気を持つことができ、日々、さらに多くのものを得ることができるということを、彼らはわかっていないのだ。なぜなら、死を意識した時、何も失うものはなくなるからだ。死は避けられないのだから...(中略)...死は常にわれわれと共にいる。そして、一人ひとりの人生に本当の意味を与えるのは死なのだ。しかし、死の真実の顔を見るためには、われわれはまず、ただその名前を言っただけで、人々の中に引き起こすことのできる不安や恐怖のすべてについて知る必要がある」(第九章 死)

人生には限りがあるから、一度きりの人生だから価値あるものとすることができる。

「死」のない永遠の生命や輪廻を自覚できる意識があったとしたら、
はたして「より良い」人生は送れるのだろうか。


「われわれは誰でも、内側で燃えている狂気の炎を持っている。そしてそれは、アガペによってかきたてられるのだ」「狂気とはアメリカを征服したいとか、アジアの聖フランシスコのように鳥と話したいとかいったことを意味してるわけではない。町角の野菜売りでさえ、もし、自分のやっていることが好きであれば、この狂気の炎を見せることができる。アガペは、われわれの普通の人間的枠組より壮大で、すべての人がアガペに渇望しているのだ」そしてペトラスは私に次のように言った。「君は青い天空の実習を使ってアガペを引き出す方法を知った。しかし、アガペが花開くためには、君は自分の人生を変えることを恐れてはならない。もし、君が自分のやっていることが好きだったら、それはそれでよい。しかし、そうでなければ、君はいつでも変えることができる。君が変化を受け入れさえすれば、君は自分自身を豊かな畑へと変え、その畑に創造力の種子をまくことができるだろう」「これは、人生の中で最も難しい瞬間だ-良き戦いを目撃しながら、変わることも参加することもできない時。こうしたことが起こった時、知識はそれを持っている人に刃向かってくる」(第一二章 狂気)

自分の中に狂気があることは異常なのではない。
むしろその狂気に気づかずに鈍感でいることのほうが問題なのだ。


「誤った答えは正しい答えを暗示している」(第一三章 命令と服従)

失敗は成功の元。


私の剣の秘密は、人生のあらゆる勝利の秘密と同じように、最も単純なことだった。それは私がその剣を使って行うべき事だった。私はそれまで、このようなことを考えたことがなかった。サンチャゴへの不思議な道を歩いている間中、私が知りたかった唯一のことは、剣が隠されている場所だった。一度として、なぜ自分は剣を見つけたいのか、あるいは、何のために、それを必要としているのか、自分に問うてみたこともなかった。私の努力のすべては、報酬に向けられていた。私たちが何かを望む時、私たちは心の中に、何が目的でそれが欲しいのか、はっきりとした考えを持っていなければならないということを、わかっていなかったのだった。報酬を求める唯一の理由は、その報酬で何をすべきかを知るということなのだ。そして、それが私の剣の秘密だった。(第一五章 エル・セブレロ)

人は旅して元いた場所に戻ってくる。
原点回帰は本能である。
同時に理性に本質を気づかせるためのものでもある。

旅をしない人に成長はない。


今回も多くを教えられました。

まだまだコエーリョ熱は続きそうです。