光の教会 安藤忠雄の現場【平松剛】

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安藤忠雄著書「連戦連敗」のレビュー記事へのコメントで、
けいあすぱぱさんから教えていただいた本。


茨木春日丘教会、通称「光の教会」。
今、最も訪れてみたい教会の一つ。

本書は光の教会の設計から施工、完成までの道のりを、
意匠設計者、構造設計者、施工業者、施主などあらゆる関係者の声を、
自身も建築構造設計の経験のある著者が客観的にとりまとめたもの。

第三者ゆえに冷静に、かつ客観的に関係者それぞれの声をまとめることができる。
そして、建築への造詣があるがゆえに客観的でありながら、現場に肉薄できる。


建築は建築家だけでできあがるのではない。
一つの建築の中で建築家の果たす役割なんて全体のほんの一部で、
そこには様々な人と仕事が入り交じっていることをこの本は教えてくれる。
建築とは極めて多面的で多様的な集合体なのだ。


建築家の仕事とは、
その多岐にわたるそれぞれの要素を一つの同じ方向に向けることではないだろうか。
だから良い建築家には人を惹きつける何かがある。
それぞれの個性を持った人々に同じものを感じさせる「イメージ」がある。



以前TOTOギャラリー『間』で開催された安藤忠雄展で、
光の教会の1/10コンクリート模型を見た。
まだ本物を訪れたことはないのだけれど、光の教会の魅力が十二分に伝わってきた。
こういうモノが、こういう空間が創れたら楽しいだろうなと思った。

立方体の一面を十字に刳り貫いただけの空間。
その空間に一枚の壁を斜めに貫入させただけのシンプルな構成。
一見誰もが考えそうで誰も考えない圧倒的なアイデンティティ。

しかしスチレン・ボードの模型で簡単に作れる簡単な造形も、
実際に人が入る建築のスケールで作るとなると、
そこには並々ならぬ施工の難しさがある。
スケールが倍になれば、作りにくさはそれ以上に倍増するのである。

それが現実にモノを創る大変さである。
そして同時にそれがモノを創る楽しさでもある。


考えぬかれた形は、言葉よりも素早く意識を変える。(P23 『1章 依頼』)

大切なのは形じゃない、中身だ、とよく言われるけど。
その中身は、形のなかに宿ってはじめて認識される。
本質を宿すものは、自ずとその本質が形に表れる。

大切なのは形だ。
現代社会はあまりにもそのことが忘れ去られている。


「建築は、最初のスケッチで骨格が決まってしまうものだ。一瞬の手の動きが、すべてを決定するのである。アイデアをまとめる時ふと自分の手が引いた一筋の線に、今まで見て歩いた建物や空間の記憶の断片がよみがえったものなのかどうか、私には分からない。ただ、一つ言えることは、自らの肉体を通した空間体験があってこそ、描く一筋の線は意味を持っているということだろう。私のスケッチのいくつかの線の重なりは、単なる抽象的なものではない。そこには実体としての空間があり、またそれが存在し続けようとする意志が込められているのだ」(P61 『2章 迷走』)

素人目に見ると、「こんなの誰でも描けるじゃん」と思ってしまうほど、
建築家のスケッチは素朴なものが多い。

しかしいざ描くときになると、素人には描けないのである。
建築家に限らずモノを創る人は、
普段から多くの良いものを見て、感じて、自分の感覚に馴染ませる努力が必要なのである。


建築家がいかに素晴らしいイメージを心に描こうとも、それを生かすも殺すも最後は現場で決まる。だから現場監督はただ技術上の心配をしていればよいわけではなく、建築家の意図を図面から十分に汲み取らなければならない。ところで、建築家が作成する図面にはすべてが描き込まれているわけではない。頭のなかにつくり上げたイメージを図面や模型、あるいは最近ではコンピュータグラフィックスなどを用いて表現し、施主や現場の人間に伝達するよう努めるが、しかし、その想いのすべてを伝えるのは難しい。それを補完するのが現場監督の務めであり、そんなところに彼の創造性が求められる。(P126 『4章 建築をつくる者』)

創造性が求められるのはなにも建築家だけではない。
ものづくりに関わるすべての人に求められるのである。
自分がイメージしたか、他人がイメージしたかなんて関係ない。
良いイメージか、悪いイメージか。
良いイメージなら、みんなで共有する。
一つのイメージでも自分の役割によってイメージの見え方は変わってくる。
見え方が変われば、そのイメージをもっと良くするためのヒントも見えてくるかも知れない。


一つの建築をつくり上げる過程では、実にさまざまな、悪くいえば邪魔くさい雑事を山ほどこなさなければならない。例えば養生。例えば錆止め。そうした作業を親方に叱られながら、いっぱいやらされているうちに建築が嫌になってくる者もいる。しかしそのなかで分かる人間には「建築家には責任があるんだ」ということが見えてくる。若いうちに、建築を好きになる部分、責任がある部分との両方を学ばなければならない。そうすることで、いずれ自分で独立してやっていく時に、責任のある、そして、自分が好きな仕事をやっていくということになる。(P195 『6章 暗雲』)

ただ、楽しいことのみを追求するのがプロなのではない。
プロには「責任」を果たす義務がある。
責任を果たす、ということは必ずしも楽しいことばかりではない。
しかし責任を果たしたあとのゴールの素晴らしさがイメージできるならば、
そこに至るまでの苦しみも乗り越えることができるだろう。

やはり大事なのは「イメージ力」なのである。


安藤忠雄はガウディの天才に畏怖の念を感じると同時に、「もちろん、全体はガウディのエゴイズムによって統一されてはいるのだが、煉瓦の一つ、あるいはタイルの一つまでもが、職人たちのエゴイズムを強烈に感じさせる」と、それをつくる職人たちの執念と技術にも瞠目する。確かに、聖堂全体に隈なく施された彫刻のエネルギーは見たもの誰をも驚嘆させずにはおかない。...(中略)...彼らを惹きつけるものは何か。金のためでも名声のためでもないことは確かである。報酬はたいした額ではないだろうし、名声はガウディのものだ。工匠たちを現場へ向かわせるのは、ひとえにその建築家によって構想された作品が放つ魅力であるとしかいいようがない。そこには職人たちの欲望をも満たす何かがあるのだ。(P213 『7章 理由』)

評価されるべきは「作った」という実績ではない。
時を越えて作り続けたい、使い続けたいと人々に思わせることである。
作った本人がいなくなってなお、作り続けたい、と職人たちに思わせる強大なイメージ。
サグラダファミリアは基本的に資金源は寄付金だから、
職人のみならず、使う人々もその存在を望んでいる。
未完でありながら放ち続ける強大な「美」のエネルギー。

ガウディはまさしく天才だ。


建築の図面に描き込まれる線は一本一本のすべてが意味を持っている。曖昧な線は許されない。図面を受け取った他人がそれを現実のモノとしてつくり上げねばならないのだ。少なくとも現場監督が職人に指示を出す時には、職人が納得できるような説明をしなければならない。そうでなければ人を動かすことはできない。それと同様、安藤事務所のスタッフにも現場監督を納得させられるだけの根拠が必要なはずだ。しかし、安藤事務所のようなアトリエ事務所は、ただ機械的に完成させるための建築を設計するのではない。その作品は「芸術」という側面を持つ。そもそも施主は安藤忠雄に彼でなければなし得ない特別な何かを期待し求めている。それゆえに「安藤忠雄」という個人の名前を冠した設計事務所に依頼しているのである。...(中略)...完成するまでは誰にも分からない。今のところは安藤忠雄の頭のなかにしかない。しかし、手間のかかる困難な好事を工務店に対して要求するという決断を迫られるのは、当然完成前、工事中の今である。建築家は孤独である。(P282 『8章 コンクリート』)

二次元の線が、三次元に起こる瞬間。
モノが生まれる瞬間。
三次元の世界で価値あるものとして存在するためには、
二次元での線の引き方にどれだけの真実を込めることができるか。
そこにもやはり「イメージ」が求められる。


「基本的には、本来、建築というモノは、自分たちのモノを自分たちでつくるというところからはじまっているわけですね。自分たちの考えたものを誰かに委ねるというのじゃなしに、自分たちでつくる。自分たちの教会を自分たちでつくるところから始まってますからね。ただ、そういうふうにすると、ある大きさを越えられない、圧倒的な大きさ。本来そういうモノだとは思ってますが、今は、依頼する人と、つくる人と、使う人は違うわけですね。しかし、プリミティブには、つくる人と、使う人と、一緒というのがいいなぁと」(P331 『9章 深層』)

現代社会は分業することで巨大なモノを創ってきた。
ただ、あまりにも細分化することで見失ってしまったものがあるのではないだろうか。
今ある巨大なモノは本当にそのスケールが必要なのだろうか。
もっとコンパクトでも良いのではないだろうか。

必要最小限。
いかに叡智を与えられた人間とて、自然界のこのルールを無視して良い、
というわけではないはず。


あまりにもメジャーすぎて、あまりにも一般化しすぎて、
安藤忠雄という人の素顔が見えてなかったのですが、
「連戦連敗」や本書を読んで、少しづつ彼の素顔が見えてきたような気がします。


いつか必ず、光の教会へ行こう。