空間へ―根源へと遡行する思考【磯崎新】

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建築家、芸術家の書く本は難しい。


  ・ギーディオン「空間・時間・建築」
  ・エドワルド・トロハ「現代の構造設計」
  ・フランク・ロイド・ライト「建築について」


...かつて読みはじめたものの途中で挫折した本たち。


この本も危うく上記リストに並ぶところだった。
大学の図書館は通常2週間の借用期間の後、
1回だけさらに2週間の延長、都合4週間借りられるのだけど、
4週間経過した時点で総504ページ中、半分ほどしか読み進まず。

例によってちんぷんかんぷんで、ほとんど内容が理解できないので、
返却してしまおうか、と思ったのだけど、
なんか勢いがついちゃって、結局もう一週間かけて読み切った。

半分は意地だね。
分厚い本を満員電車に揺られながら、絶対最後まで読んでやる、ってな感じで。

建築家として手腕が優れていればいるほど、
その文章力は反比例していくような気がする。


「空間」
この大学で1年間、空間について学んだけど、結局明確な答えは得られなかった。
もやもやとした霧や雲のような存在で、つかもうとしてもその感触が得られない、
つかみどころのない存在。

時にそのことにイライラしたり、失望したけれど、
それでも「空間」に惹かれる自分を感じる。
ただ、「空間」という言葉に惹かれているのか、その本質に惹かれているのか、
それさえも今は分からない。

ただ。


  「空間へ」


今の自分の状態を一言で言い表すならば、間違いなくこの言葉に要約される。
だから、この分厚い本を手に取ったのかもしれない。


...しかし磯崎さんの文章は相変わらずさっぱり。


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[水戸芸術館]


下手に内容を完璧に理解しようとするより、とにかく読み進める。
そんな風に読んでいると、分からないなりにピンとくる箇所に出逢えたりする。
そういう部分を大切にすべきなのかもしれない。


磯崎さんの文章を理解できないのは、ひとえに氏の建築を知らないのもあるかもしれない。
本来建築家は文章ではなく、「形」で表現する人なのだから。

これまで訪れたことがあるのは、水戸芸術館ハラ・ミュージアム・アークのみ。
もっと磯崎建築に足を運ぶ必要がありそうだ。


しかし本書中で「プロセス・プランニング論」を展開している様子を見ると、
磯崎さんは建築家でありながら、どうも「形」で表現したいのではなさそうだ。
そしてそこに自分は反発を感じているのかもしれない。


いったん創出され、建設された建築は一個の有機体としての生命が与えられたともいえる。その有機体は内包する諸活動との相関関係でさまざまに変化しながら生きていく。その≪生きていく≫という断面を私たちは実体としての建築からうけとるのだ。それはひとつの段階から次の段階へ移行しようとするプロセスなのだ。私が≪プロセス・プランニング≫という計画概念導入しようとしたのは、そのような建築の生態的状況への反応からにすぎないのだが、そのプロセスを創作的方法として把握するために、終末論への態度決定が重要な要因となってくる。(P67 『プロセス・プランニング論』)

これはすごく共感する。
有機体が過ごす場所はやはり有機体に包まれた場所であるべきなのだ。

ここまでは納得。


どのような実体的な建築でも、私たちは完璧に停止しているものを知らない。その建築が内包する活動は徐々に変化するし、物理的に風化し、汚れ、偶然にあるいは故意に破壊され、修理され、改変されたりする。それゆえに完璧に停止したような状況というのは、想像上にしか存在せず、実体的な存在は常に変貌の過程にあるといえる。それにもかかわらず、歴史的に建築の設計は一定の時点での完成を意図してきた。完成のあとは維持というはなはだあいまいな概念によって放棄されることになる。とすれば、建築には現実の問題として終末などないともいえる。事実、終末論は実体のなかにはなく、方法的仮定のなかにあり、イメージそのもののなかにあるのだ。そのような終末論こそ、自然的、社会的な時間推移によって変化をひきおこさせる建築を、イメージの内部で停止させてみせるのである。(P69-70 『プロセス・プランニング論』)

すべてのハードはたゆまなく変化する。
だからハードをスタティックに捉えることに意味はなく、
形を脱して、ソフト(イメージ)のなかでプロセスを論じる。

流れとしては正しい気がするけれど、
どんなにたゆまなく変化するものであっても、僕らはそのハードの中でしか生きられない。
絶え間なく流れる時間と変化に抗って、「形」を留めようとすること。
そのことに人間は喜びを感じる生きものである。

プロセスにどんなに価値があるとしても、
終局としてはハードに還元してこそ、そのプロセスは生きるのではないだろうか。


私にとって現代都市は、見えないものどもが巣喰い、とびかっている、つかみどころのない妖怪であった。いまだにその正体もつかめず、未来を威勢よく透視するなどおよそみこみのがない気がするのだが、その空間の実質は、現代のテクノロジーが強烈に支配していることだけは確実だ。とすればデザインの方法もそのテクノロジーへ賭けてみるべきだろう。予想した五つの条件の空間とは、サイバネティックスを根底に据えている。サイバネティック・エンバイラメントといいかえてもいい。この視点を設定することは、まったく迷宮のようにみえる都市の内部にアリアドネの糸を張りめぐらすことを可能にするかも知れない。不可視の迷宮はこれをたよりに測量されるだろう。いま私たちはそのような技術を所有しはじめたばかりなのだ。(P394  『見えない都市』)


文中の「五つの条件の空間」とは、


  1.一定の均衡した条件が維持できるようにその環境に保護膜があること。
  2.互換性にとんだ空間であること。
  3.各種の可動装置がふくまれていること。
  4.人間-機械系が成立すること。
  5.自己学習していくようなフィードバック回路を所有していること。


20世紀を駆け抜けた建築家らしい言だと思う。
テクノロジー至上主義。

それを否定する気はないけれど、それだけでは足らない、ということを
21世紀の人々は気づいているのではないだろうか。

都市とはとどのつまり、人々の集合体を秩序づけようとするものではないだろうか。
一方で自然(有機体)とは、基本構成要素は幾何学的でありながら、
全体としては渾沌としているものである。
一枚一枚の葉は同じ形をしていても、樹木としてみれば、
ひとつとして同じ形状のものはないように。
そしてそれが有機体の「個性」である。

それを強引に秩序づけようとすると、どこかに歪みが生じてくる。

ある程度の方向付けのためのサイバネティクスは有効かも知れないけれど。
それを至上とするのは危険だし、有効ではない。

テクノロジーと自然がもたらす「感覚」。
そのバランシングが大切なのではないだろうか。


古典的意味合いにおいての都市美あるいは建築美にとって、このような広告的附加物は、何はともあれ排除されるべきものであった。しかし、いかに排除しても、これらの広告物は、増大するだけである。次第にファサードを埋め、屋上の全部にのしかかり、エントランスの周辺部に貼りつき、ついに建築物は、広告の衣装にまとわりつかれて、奥深く埋没してしまう。かつては、定点にある実体に接着していた標識が、剥離し、都市空間内をいたるところに浮遊しはじめ、目抜きの場所に腰をおろし、そこから再び繁殖をつづけはじめた。そしてネットワークをこわし、ゆれうごく。建築はそれ独自の論理を必要とせずに、むしろ、広告の論理にしたがいはじめる。広告が巨大化し、そのシンボルそのものが建築となっていく。建築にとって機能を表現していたものが、機能自体が変質して遂には立体化した広告の一隅に建築が住みこんでいくような状態になる。(P448-449 『軽量で、可搬的なものたちの侵略』)


僕は広告が嫌いだ。
美しい建築の壁や屋上に広告が貼られていると、すごく幻滅する。
そういう広告で購買意欲が湧き上がることは皆無である。

広告こそ、デジタルやメディアの中で完結させておけばいい媒体ではないだろうか。
実際、デジタルの外では広告はその機能が衰退しているような気がする。

3次元から「奥行き」という次元を排除した二次元媒体である広告は、
所詮三次元世界にはそぐわない。

即効性がある代わりに、その効果がなくなるのも早い。
人間は変化を好む生きものであるが、それ以上に「いかに形を長く留めるか」に
喜びを感じる生きものである。
このことを考えると二次元媒体がいかにその喜びから遠いものであるか。

建築と広告は切り離すべきである。


大学院に在籍可能な最後まで居残っていたにもかかわらず、遂に学会に研究論文ひとつ発表することがなかった。このあいまいな態度が維持できたのは、デザインという学問になりきれない要素を専攻することにたいして、これまた大目にみる以外に手のうちようもない講座の構成にあった。知的潜在失業者のドヤといってもいい東京大学の大学院は、実に心地いいネグラでもあったし、結局は借金になった奨学金もくれた。それにもかかわらず一編の論文も書けなかったのは、ぼく自身の思考の構造に起因したといっていい。(P503 『年代記的ノート20』)


いまの自分の状況に似ている気がする。
学校という場所やデザインの状況は21世紀になってなお、たいして変わってないのだろうか。

僕の場合は論文ではなく、コンペがこれに置き換わる。
デザインの「学問になりきれていない」という要素は今なお感じる部分である。
そして「大目にみる以外手のうちようのない」成績評価も同じだ。
さらにはキャンパス自体はそれほど居心地良いものではないけれど、
「責任」を課せられない学生という身分そのものは居心地良いものであること、
いずれは借金となる奨学金をもらっていること、
コンペにほとんど出せなかったのは自身の「思考の構造」に起因していることまで、
実によく似ている。


現実の世界に変わらないものなどないといっても、
現代はスピード社会といわれるものでもあっても、
それでも変わらないもの、あるいはゆっくり気の遠くなるようなのろさで
変わっていくものもある。

結局のところ、大事なのはいかに早い流れに乗っていくか、ということではなく、
いかに自分に合った「速さ」を知るか。
速すぎても遅すぎても、自分に合わないリズムはストレスになる。
適度のストレスは人を成長させるけれど、過ぎたるは及ばざるがごとし。


自分の適正リズムを知る。
そのために僕は学んでいる。


10年後ぐらいにもう一度読み直してみたい。
その時、僕はどんな風に思うだろう。