大学の助手さんから借りて読みました。
中沢新一さんって多摩美の教授だったんですね。
その昔、縄文時代では地球は今よりもっと温暖で、
東京の低い土地(沖積層)は海に埋もれていた。
その海岸線はリアス式海岸のように複雑に入り組み、
無数の岬が存在した。
縄文人はその岬の大地(洪積層)に墓や貝塚を作った。
昔から岬は特別な場所だった。
時代が流れて、水が引いてもその岬は特別な場所であり続けた。
寺社や墓所、東京タワー、皇居など地霊の宿る場所であり続けた。
科学の進化と共に人々は自然の力を忘れていった。
自らの力を過信し、自然をないがしろにするようになった。
そして人々は狂気へと走ってゆく。
古代の縄文地図を片手に東京を歩くことで、
聖なる岬を巡ることで自然の偉大なる力を思いだそう。
...それが「アースダイビング」。
自分は元々信心深い方ではない。
それでも今は世の中科学が全てだとも思わない。
科学では説明しきれない、なにか大いなる力があるのも分かる気がする。
それでも三十代前半までエンジニアとして過ごしてきた経緯から、
こうした科学の関知しない分野には抵抗感を感じてしまうようだ。
だからこの本を読むのも遅く、遅々としてページがなかなか進まなかった。
中沢氏の語り口にも時に抵抗を感じたり批判的になったりした。
子供の頃は「なぜ?」を連発した。
その「なぜ?」を繰り返して、説明のできない原始的な部分まで突き詰める。
意識下にある領域を人は「科学」で秩序立てた。
でも本当に大切なものは意識下を通り抜けた、
「無意識下」にこそあるのではないだろうか。
科学は社会をどんどん便利にした。
安定した環境に安住していると、生物は進化しないもの。
一方で人々は古来からある、原始的な感覚を失っていった。
方向感覚や危機察知能力、共感力などいわゆる「第六感」が
現代人は鈍くなってはいないだろうか。
その結果が毎日のように流れる痛ましい事件のニュースじゃないだろうか。
二十歳で上京してきたけど、二十代はほとんど東京を出歩くことなど無かった。
三十代になって、大学に行くようになって、ようやく僕は東京を出歩くようになった。
グリーンマップのバイトで東京を自転車で走っていると、
意外と坂が多いことに気付く。そして意外と緑の多いことにも。
感覚を研ぎ澄ますことで見えてくる大切なものがある。
だから僕は今、感覚を磨くために大学でアートやデザインを学んでいるのだ。
AKEEM
お正月以来となります。
ご無沙汰してます。
ただおーさんもこの本読まれたんですね。
しかも最近。
僕もちょうど先週読んだところなのでおもわずコメントしてしまいました。
僕は理系人間でもないし文学的な思慮深さも持ち合わせてないんですけど、中沢さんの文章は「少し飛躍し過ぎなのでは?」と思ったりしました。
でもそう思ってしまっている自分の感覚こそ僕の先祖達はもっていたかもしれないし、産業革命後の機械の時代を獲経て今を生きる僕達には失われた身体感覚の一つなのかも知れませんね。
人類が思う「進化」ってそういう意味で退化と同義なのかも
・・・と僕も飛躍してしまいました。
tadaoh
AKEEMさん >
コメントありがとうございます。
奇遇ですね!
僕も最初は読んでてどうも文章が好きになれませんでした。
でも一通り読んで感想を整理してみると見えてくるものがありました。
やっぱりブログっていいですね。
自分の考えを整理できる。