柳宗理 デザイン

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1998年にセゾン美術館で開催された、
「柳宗理のデザイン-戦後デザインのパイオニア」の図録。


大学の助手さんが貸してくれました。


それまで柳宗理といえばバタフライスツールくらいしか知りませんでした。

ポスターや雑誌の表紙、サインなどのグラフィックデザインから
家具や文房具、キッチン用品などのプロダクトデザイン、
果ては自動車、橋梁、道路の防音壁に至るまで
実にさまざまな分野でその手腕を振るっていたんですね。


しかし一番僕を惹きつけたのは、デザインに対する考え方。

冒頭に「デザイン考」と題して氏のデザインに対する考え方が
5ページにわたって掲載されています。

深沢直人氏の「デザインの輪郭」や原研哉氏の「デザインのデザイン」にも
勝るとも劣らない「デザインとは?」というデザインを志すすべての人たちが持つ
永遠のテーマへの明確な回答がここにある気がします。
なにより1983年の時点でこのようなビジョンを持っていたことがすばらしい。

氏と同じくあらゆるものをデザインし、
「口紅から機関車まで」という名著を残したレイモンド・ローウィに
通ずるものを感じますが、時代的に大量生産、大量消費を手放しで歓迎していた
ローウィに対して、自然や地球環境問題を意識した柳宗理のデザイン観は
その視野の広さを継承しつつ、さらに進化したものだった。


代表作:バタフライスツール


「デザイン考」は9つの章で構成されています。


1.デザインと創造

デザインの至上目的は、人類の用途の為にということである。創造の無いところにに本当の意味のデザインはない。従って創造のないものは模倣であって、本当のデザインとは言い得ない。~中略~デザインは意識活動である。しかし自然に逆らった意識活動は醜くなる。なるだけ自然の摂理に従うという意識である。この意識はデザインする行為の中で、究極のところ無意識となる。この無意識に到達したところより美が始まる。優れたデザイナーは、自然の法則をなるだけ使い、できるだけそれを利用した人である。


昨今のものづくりを軽視する風潮に疑問を感じていたけれど、
その感覚が間違っていなかったという自信を与えてくれた。


2.デザイン・プロセス

デザインの成功如何は、デザインするプロセス如何による。デザインするにはワークショップが大切である。紙と鉛筆だけでは、デザインの基本的発想も、美しい形態も出てこない。ワークショップで物を造りながら、試み、考えるということが、デザインする上での最も有効な基本的態度である。デザインの発想は、頭の中で瞬間的に出てくるものではない。デザインの構想は、デザインする行為によって触発される。デザインする行為は、主にワークショップで行われる。それはデザインを考えるための試作、実験、模型製作等であって、勿論デザイナー自身が行わなければならない。


紙と鉛筆だけではデザインはできない。

美大に入るとき、なぜデッサンのテストが無かったのか、少し分かった気がしました。
そしてあらためて3Dスケッチの重要性を認識しました。

とにかく手を動かす。
その過程でデザインは見つかっていく。


3.デザインと科学

デザイン行為は物の原点より出発すべきだから、すべての科学的知識以前に、行動が開始されるべきである。~中略~マーケット・リサーチなるものは、デザインの創作にとってあまり役立っていない。創造的デザイナーにとっては、寧ろブレーキになる場合が多い。何故ならマーケット・リサーチは過去のデータの分析だからである。それに反して、創造をモットーとするデザインの本来の使命は、過去に未だかつてない優れたものを生みだすことにあるからである。


知識は知覚の記録、蓄積である。
デザインの根源的欲求は知覚から意識しなければならない。

デザインにマーケット・リサーチは不要、という点は
以前同級生と議論したことがあるのだけど、はたしてそうなのだろうか。

確かにブレーキになるかもしれないけれど、
過去を知らなければ、未来を造ることはできない。
目の前にある壁を知ることで、その壁を乗り越える術を考えることができる。

温故知新。
僕は遠回りかもしれないけど、足かせになるかもしれないけれど、
マーケット・リサーチはやはり必要だと思う。


4.デザインの協力者

デザインは一人でするものではない。三人寄れば文殊の知恵と言うが、優秀な協力者があれば、何人いてもよい。二人寄っても数倍の妙案が出るものなのだ。~中略~デザイナーは社会的に孤立してはならない。良いデザインを世に出すためには、あらゆる人とつき合わねばならない。~中略~良いデザインは、それをデザインしたデザイナーだけが偉いのではない。~中略~良いデザインは優れたデザイナーのみでは生まれ得ない。その製品を作る企業者、或いは製造業者、その製品を販売する販売業者、そしてその製品を使用するユーザーが良くなければ、良いデザインはこの世に出現し得ない。


良いデザインは一人では実現し得ない。
世捨て人ではデザインはできない、ということ。
それならどんなに今の社会に問題が多くても、
人間の可能性を信じ、今の社会を信じ、その未来に希望を持たなければ。


5.現実のデザイン

今日では、よく売れるものは良いデザインであるとは必ずしも言えない。また、良いデザインは必ずしもよく売れるとは限らない。今日のデザイナーは、良いデザインを造るということを目当てにするだけでは事足らなく、よく売れそうなものをということまで心がけなければならない。即ち、良いデザインと、よく売れそうなというものの接点を見出さねばならない。今日の多くのデザイナーにとっては、良いものを造るというより、よく売れそうなものをデザインする事の方がより易しいであろう。勿論良心的なデザイナーはその逆である。だが彼は前者に比べてより苦労するであろう。


売れるデザインが必ずしも良いデザインではない、という事実。
これもデザイナーにとっては永遠の命題かと思われますが。
良いデザインは良いデザイナーだけではなく、良いユーザーも必要。
しかし良いユーザーはよいデザイナーの歩みにたいして一歩遅いのが常である。

そこがデザイナーのジレンマでもあるわけで。
しかしそれでも大意に流されてはいけない。
自分の感覚を正しい方向に磨き、信じることが重要なのではないでしょうか。


殆どのデザインは流行におもねさせられている。しかし本当のデザイナーは流行と戦うことにあるのだ。商品の回転を早めるために、人々の浪費を促す。経済成長の手段を選ばない濁流の真っ只中に泳がせられている今日の多くのデザイナーは、全く悲劇的でさえある。


流行と本質。
これも最近よく考えること。

流行のすべてが悪いとは思わない。
流行の中に本質が隠れている。

流行は読んで字のごとく流れ行くもの。
ぼーっとしてたら、その本質は流れて消え去ってしまう。

流行との戦いは時間との戦いでもある。


今日のデザインが後世にまで恥を曝して残ることは言うまでもない。人間の造ったものは、終局的には土に戻してやらねばならぬ。それが自然の調和を保つ上での循環作用の大法則なのだ。どうやら人間は物を造ることより、物を捨てることの方が、本当は苦手のようである。これからのデザインは、物を捨て去った後のことまで考えねばならないだろう。

これからの良いデザイナーは自然主義であらねばならない。
自然を無視して良いデザインはできない。


今日のデザイナーは人類文化に役立っているとはお世辞にも言えない。機械時代になって、その製品に醜いものが多いということは、デザインというものがあるからだといわれても仕方がない。殆どのものがデザインされているにも拘わらず、その殆どが醜いとは、結果的にみて、今日ではデザインという職業がない方がよいかも知れぬとまで考えられるのである。~中略~もっともデザイナーがいなくても、各技術が有機的にうまく融合されている場合がある。これはアノニマウス・デザインと言われていて、大変美しいものである。野球用のバット、グローヴ、化学実験用のフラスコ、ビーカー、或いは人工衛星等。アノニマウス・デザインは今日の汚れたデザイナーが到底タッチできないほど、素晴らしく神聖なものである。アノニマウス・デザインに比べて、デザインされているものが殆ど醜いとは、それを構成しているコンポーネントの融合に何か有機的でない不純の異物が混じっているからであろう。


今日のデザインに対する辛辣な批判ですが、
裏を返せばそれだけデザインを愛している、ということなんでしょうね。

「アノニマウス・デザイン」という言葉は
まさに「民芸」という思想と言葉を創造した父、柳宗悦の影響を感じます。
ただ、僕にはこの感覚はやっぱりしっくりこない。

良いデザインは良いデザイナーだけがするものではない。
「デザイナー」という自覚がなくても良いデザイン行為はされるもの、
ということなのかな。


6.デザインと民芸

民芸は地域文化、或いは民族文化と言えようが、デザインは人類の文化である。民族の文化より、人類の文化へと向かうデザインは、各地域文化の交差、融合によって、より広いユニットへ向かわんとするエネルギー燃焼の過程にあり、いずれは統合された人類文化の純粋性を確保するだろうが、今のところは非常に困難である。それは手工業時代から、機械時代へ移るに伴っての混乱であり、即ち近代化による種々の矛盾の勃興である。先進国における近代化は、文化史上かつてない程の恥ずべき最低の醜悪さを曝し出している。近代化による同じ轍を、開発途上国に踏ませんとしているが、一体人間の幸福とはなんなのだろうか?


早い時代から自然感覚の優れた人たちは、
機械化時代の諸問題について疑問を投げかけてきた。

しかし多くの人たちがその疑問に目を投げかけるようになったのは
つい最近のことであり、依然としてまだ目を向けない人も多くいる。

すべての人が「一体人間の幸福とはなんなのだろうか?」と
考えるようになれば社会は、地球はもっと美しくなるのに。


7.デザインと伝統

伝統は創造のためにある。伝統と創造をもたないデザインはあり得ない。伝統的な美の様相を、そのまま真似ようとしたり、またその一部を今日のデザインに取り入れようとしたりすることは、その因って生まれた必然性を無視することになる。伝統の美は意識してできるものではない。生まれるものである。~中略~伝統を意識するということは、兎角すると似て非なるものに陥り易い。即ちエピゴーネンの危険が伴うのである。日本人が日本の土地で、日本の今日の技術と、材料を使って、日本人の用途のために真摯に物をつくれば、必然的に日本的な形態が出現することになるだろう。かつての強固な伝統美は、強固なゲマインシャフト的社会より生まれたものである。


「良いデザインをするには?」

デザイナーなら誰しもこのように考えているはず。

しかし善行は善を行おう、と意識して行われるものでないように、
良いデザインもそれをしようと意識しすぎると上手くいかないようである。

正しいことを正しいと判断する。
数多くある世の中の本質を1つでも多く発見する。
...それが良いデザインを生む下地となるんでしょうね。


※エピゴーネン: 思想・芸術上の追従者・模倣者を軽蔑していう語。亜流。
※ゲマインシャフト(共同社会): 
  成員が互いに感情的に融合し、全人格をもって結合する社会。
  血縁に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市など。
⇔ゲゼルシャフト(利益社会):
  成員が各自の利益的関心に基づいてその人格の一部分をもって結合する社会。
  成員間の関係は表面的には親密に見えても、本質的には疎遠である。
  大都市・国家・社会など。
(広辞苑より)


8.デザインと社会

デザインの性格には、各デザイナーの個性が現れることは勿論だが、それよりもその製品が生まれた所のバックグラウンド(社会)の性格が遥かに強く反映されるものである。これは誰々のデザインというよりも、これはドイツのデザイン、イタリアのデザインと言った方がより明瞭にその性格が出て来る。健全な物は健全な社会に宿る。デザインは社会問題である。良い社会とは何か?それはゲマインシャフト的に結ばれている社会だと思う。お互いにゲマインシャフト的精神に結ばれていれば誤魔化したり、欺いたりするデザインは生まれてこないだろう。社会問題を解決せねば、良いデザインは生まれてこない。


デザインの個性はデザイナーの個性だけで決まるものではない、ということ。
結局デザインにも「愛」が必要だということなのだろう。

デザインをするのにエゴを意識することはとても重要だけど、
それだけではデザインをする意味はない。

自分たちが生きる社会が、地球が幸せでなければ
自分も幸せになることはできないのだから。


9.デザインの将来

今迄は地球の物資をできるだけたくさん掘り起こして、物を無放図に、量的に生み出すということが経済成長であり、それが人類幸福につながると思われてきた。しかし、富める地球は、今や貧しき地球へと変わりつつある。我々は限られた貴重な物資を、如何に大事に扱うかというところにきている。とくに浪費のための量的生産は最も戒しむべきである。機械生産は、量より質へと転換すべきである。勿論デザインも、安っぽい見せびらかしの媚よりも、本当に人間に役立つ質的なものへと意を注がねばならぬ。~中略~人口の制御、生産の制御等々、何事も今後は制御の時代となるだろう。勿論デザインも制御の問題が出て来るだろうが、制御問題は人間にとって最も頭の痛い、難しい問題となるだろう。地球文化を長らえんには、人間は一体何を為すべきかという原点に戻って考えねばならぬ。デザイン問題も、今やデザインとは一体何なのかとの根源の問題に返るべき時期にきている。


この文が書かれてからおよそ25年。
柳宗理が今の社会を見たらどう思うのだろう。

絶望とまではいかなくとも、25年前とあまり変わらぬ社会の情勢に
少なからず落胆するのではないだろうか。


本質は変わらない。
だから時間がかかっても、人々が見つけようと思えば見つけることができる。

人々に本質を分かりやすく指し示すことで、
社会を、人類を、地球を豊かに幸せにする。


それがデザインの使命ではないでしょうか。