生まれつきの精神障害者、チャーリイ・ゴードン。
32歳になっても幼児程度の知能しかなく、
周囲の人間は彼をからかってはいたけれど、
彼はパン屋で毎日真面目に働き、
知能が低いながらも読み書きを覚えたい、という人一倍の向上心を備え、
なにより彼には人を惹きつける魅力を備え、
その周囲は笑顔にあふれていた。
そんな彼に、ビークマン大学の脳外科医であり精神科医であるストラウス博士、
心理学部長であるニーマー教授といったお偉い先生方が
チャーリイに手術を施して頭を良くしてくれるという。
動物実験のモルモット、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に連日の検査、
そしてついに手術を受けたチャーリイは
普通の知能を通り抜け、IQ185の超天才へと変貌する。
望んでいた知能を手に入れたチャーリイだったが、
彼を待ち受けていた運命は...
人が幸せになるのに必要なものは知能だけではない。
豊かな「感情」がなければ人は幸せにはなれない。
物語はチャーリイがニーマー教授やストラウス博士に自分の現在の状態を報告する
「経過報告書」という形態で語られてゆく。
最初の1/3ほどは漢字がほとんどなく、句読点も使われず、稚拙な文章で綴られている。
原著は英語表記のはずだけど、この辺の知能の低さは英語ではどう表現してるんだろ。
そして手術後の経過と共に知性の高まりを見せる文章となっていく...
しかし。
手術では確かに彼のIQを飛躍的に向上させた。
しかしEQを向上させることはできなかった。
高い知能と幼稚な感情とのアンバランスはしだいに彼の人格を分裂させ、
崩壊へと向かわせる。
物語最後の文章は最初と同じような稚拙なものへともどってゆく。
この本を読んでいて、『レナードの朝』を思い出した。
長い間植物状態だった患者が、とある薬で長い眠りから目覚め、
一見健常状態に戻ったかのように見えたがそれは一時的なもので
やがてはまた長い眠りへと戻っていく...
僕が一番好きな映画の一つ。
こうしてみると、自分はどうも「原点回帰」というものに敏感に反応するらしい。
科学はどこまで自然に介入して良いのだろうか。
未知なるものを既知なるものへとするだけでも膨大なエネルギーを浪費する。
人間以外の動物は「生きる」ために他の生物を補食するけれど、
人間は「より良く生きる」ために他の生物を、環境を犠牲にする。
...人間にそんな権利があるのだろうか。
「より良く」生きるために人は学ぶ。
しかしこう考えると学ぶことは時に罪悪にすらなりかねない。
賢ければどのように生きても良い、ということではない。
それが弱肉強食、ということでもない。
「より良く」生きることを選択した人間は、自然に対する責任を負う義務がある。
「より良く生きる」ということはどういうことだろうか。
白痴に戻ったチャーリイが行き着く予定のウォレン養護学校の精神科医は言う。
本書の序文でキイスはこう結んでいる。
僕はここに「あらゆる自然」について考えることを付け加えたいと思う。
知能と感情が互いを補うことで得られるものが知恵というものではないだろうか。
知恵こそが人を幸せへと導く。