住宅見学会

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大学の先生が設計した住宅の見学会に行ってきました。


...実は新築住宅を見学するのは2軒目。

最初の1軒目をすぐにレビューしなかったのは思うところがありまして。

まだ住人も住んでなく、家具など余分な成分が一切ないまっさらな状態。
建築そのものを直接的に体験できるまたとない機会...

...のはずなのですが。


いまだにリアリティが湧かない。

たぶん自分の中の建築の感覚がまだまだ、ってことなんだろうな。

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横浜市の小高い丘の閑静な住宅街。
屋上からの眺めが抜群。

RCの壁面に十字の木材。
多分装飾なんだろうけど、ソリッドなRCに柔らかな雰囲気が加わっていい感じ。
コンクリだけでは固く冷たいイメージが木の肌が加わることで緩和される。
こうしてみると、装飾も大切な要素だと思える。
ファサードの見栄えの重要さが伝わる。


中の空間はというと。

生活臭のない、ゼロの状態。
この状態ではこの空間が快適なのかどうかはよく分からなかった。
実際の空間を前にしてさえこう思うのだから、
施主及び建築家はまだ見ぬ空間の快適性について予想をめぐらせるのは
さぞかし大変なことではないだろうか。

住宅は本来そこに住む家族だけが過ごすことを前提に設計された空間。
そこに所狭しと人が押しかけるものだから、どうしても手狭に感じざるを得ない。

しかし良い空間をアピールすることは、良い空間を増やしていく、という
社会的な意味において有効なのも確か。
ここに住宅見学会の難しさ、というものがあると思う。

施主も現場にいらしてました。
しかし聞きたいことは山ほどあったのだけど、なにか失礼なことを質問して、
先生に迷惑をかけてしまうのが怖くて結局何も聞けず。

住宅見学会はあくまで建築家サイドに有益なものだと思う。
誰だって大金はたいて手に入れた自分の空間にずかずかと他人を入れたくはないはず。
それでもこうして住宅見学会を許可してくれて、施主自らが見学会に立会う。
施主と建築家の間に良好な関係が築かれているように感じました。
(別に先生にゴマをすっているわけではありません^^;)

良い空間かどうか、という問題はともかく、
現在課題で住宅を設計していることもあって、
スケール感を学ぶにはまたとない機会ということで、
メジャー片手にあちこち採寸させていただきました。
これは助かった。


一軒目の見学会はただただ、その豪華さ、に圧倒された。
施主も建築家もいなくて居るのはスタッフだけ。
注文住宅、というのは金持ちのためのもんだ、という印象が強かった。
そこがちょっと引っかかった。

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貧乏人のひがみ根性かもしれないけれど。

金をかける、ということはそれだけエネルギーが使われる、ということ。
金があれば、どれだけ無駄遣いしてもいいわけじゃない。

エネルギーは無限ではない。
人間はただでさえそのエゴでエネルギーを食いつぶす。
そして周囲の環境に迷惑をかける。
そのくせ自分たちのエゴを侵害されると、周囲を敵視する。

周囲の生きものたちがそうしているように、
人も最低限のリソースで生きていかなければならない。
知恵は贅沢をするためにあるんじゃない。
最低限のリソースで最大限の効果を引き出すためにあるもんだ。
そういうものじゃないだろうか。


大衆は劣悪な賃貸住宅に住むか、人生の大半をかけてローンを組み、
無個性で均一的な空間のマンションを購入する。
そういう選択肢が圧倒的に多い今の社会はやはり問題を孕んでいるように思える。

すべての善良な市民が、それぞれの経済力と個性に見合った「家」を、
最低限のリソースで手に入れる方法はないだろうか。

そういう建築を求めるのは儚い夢なのだろうか。