デザインで飯を食う、ということ。

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水曜、木曜と先生と深い話をする機会がありました。


水曜日は「アイデンティティ・デザイン」の授業で。


  「デザインで飯を食っていくとはどういうことか?」


という、デザイン学科における直面のテーマについて、
先生と学生達がフランクに語り合いました。


一方木曜日は実習課題でのエスキース。
忙しい先生の合間を縫って、はじめてじっくり相談に乗ってくれました。


二人の先生が示唆してくれた共通のアドバイス。


  「迷うことや不安を持つことは決して間違ったことではない」


不安は幸運を内包している、ということ。

迷い、不安に思うのは自分が未熟だということを理解していること、
いろんな選択肢があり、そのどれもが正解であると同時に、不正解でもある。
世界は矛盾に満ちており、その矛盾が見えるから迷うのだ。

「デザインで飯を食うとはどういうことか?」

ある学生は言う。


  「人を思いやり、もてなすことだ」


なるほど。
コミュニケーションをコース名に冠するうちの大学らしい模範解答だ。

それも一理あると思う。
デザインは関係を表現するものであり、
相手を知り、敬い、信じることから良い関係は始まるのだから。

しかし、それはデザイン固有の特質なのだろうか。

思いやりやもてなしの心はすべての産業に通ずる基本的な地盤ではないだろうか。
技術も然り、芸術も然り、農業も然り、工業も然り。
すべては人間社会の幸福のため、
自分だけではなく、自分の仲間たちすべての幸せのためである。

人間が自然の仲間と言う意識を持つならば、
自然界すべての繁栄が、いうなれば地球を含めた全宇宙の繁栄が
すべての産業の目的ではないだろうか。


では、デザインの特性とは何なのか?

先生曰く、デザイン業界は非常に人間臭い世界だとか。

それはデザインがまだエンジニアリングのようなマスプロ化の状態に
至っていない未成熟の段階だからなのか、
はたまたそれがデザイン固有の特質なのか、今の僕にはまだ良く分からない。

ただ、マスプロが決して完成した領域でないことだけは確かだ。
マスプロの弊害に気づいたことで、安易にマスプロ化への道を進まないよう、
デザインは警戒しているのかもしれない。
そう考えると、デザイン業界固有の人間臭さはデザイン固有の特質、というよりは
デザイン業界が行った一つの「選択」だと言える。
そしてその選択はデザイン業界に限らないのではないだろうか。

今の段階では疑問を生じるのみで、
それに代わるデザインの特性を明示できないのがもどかしい。

引き続いて模索し続けるしかない。


続いてデザイン課題のエスキース。

各学生の目指す進路によって、課題のスタイルが異なる今のセッション。

いつもならいの一番に作品のコンセプトを定めて作業を進めていく自分が、
今回に限っては中間プレゼンギリギリまでテーマが定まらなかった。

「卒業後の進路」という具体的なテーマと、
実際の差し当たってのアルバイト探しさえ見つからない現実の厳しさが相まったことで、
不安が増大し、一層迷走してしまったようだ。


建築を目指すことを決めたものの、この大学では建築を教えてない。
...それを空間デザインコースの事実上のトップが認めた。

複合的で多岐的、矛盾的である建築を学ぶには相当の時間が必要となる。
2年生の前半まではグラフィックからプロダクト、空間などあらゆる分野の
デザインの基礎を広範に学生の自由選択で学ぶこの大学のカリキュラムでは
建築を教えるのは時間的に無理なのだそうだ。

建築界で活躍する教授がいながら、
時間的制約のために建築を教えることができない。
インテリアなど即効性のある分野に的を絞らざるを得ないのだとか。


先生も自覚してるんだ。
そしてそのことを残念に思っている。

それだけでも少し救われた気がした。
自分はないものねだりをしていたわけじゃないんだ、と。

インテリアデザインは部分的といえど、建築の一部には変りない。
現実の厳しさに前向きに対応する姿勢も必要だ、という自覚が持てた。


自分が好きなものを創り、
それを他人が喜んでくれて、社会が受け入れてくれる。
そのようなものを創っていくのは本当に大変なことなんだと。

それでも地道に求め続けるしかない。


だから今は図面と、模型と、イメージ(スケッチ、3DCGなどのパース)の
表現手法の三本柱を地道に磨いていこう。


  「子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。
   思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし。」