「空間」という曖昧な存在

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彼ら(コルビジェやミース)は初期モダニズムのテーマであった空間という名の曖昧な存在を放棄して、オブジェクトを提示したのである。(隈研吾『負ける建築』より)


3年生になってSCコースに移動して、空間課題に取り組むようになったのだけど、
その作品は「オブジェのようだね」と先生からよく言われる。

決して褒め言葉ではなく、「空間」を意識していない、もしくは分かっていない、
という意味なんだと思う。

確かにそうかもしれない。

元々プロダクト志向でこの大学に入ってきて、
ものづくりから僕の学びははじまったのだから。
今は空間云々から建築を語りたいのではなく、
ものづくりの観点から建築に取り組みたいのかもしれない。


空間、という漠然とした曖昧な存在。
その言葉を扱うことに感じる妙な違和感と抵抗感。

...それをずっと感じていた。

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目に見えないものを感じるのは難しい。

そしてそれを社会の中で共有することはなお難しい。

だから見えないものを見えるものに置き換えて可視化することで、
人は見えないものを理解できるのだと思う。
その作業をデザインと呼び、建築はデザインを内包する。


本質的なもの、大切なものはえてして見えないものが多い。

だからこういう見えないもの→見えるものへの変換作業が重要なのであり、
ものづくりの原点はそこにあるのだと思う。

空間そのものは見えない。
そこに大切なものが詰まっていることはなんとなく感じる。
でもやっぱり見えないものは見えない。

だから「見えないもの」を包む「見えるもの」に意識を集中する。
そういうことなんだと思う。


曖昧なものは嫌いだ。
でも世界って9割が曖昧なものでできている。

だったら好きにならなくちゃ。